水場から引き返すと再びザックを背負い足を運ぶ。
ここからはしばらく登り坂が続く。ヤセ尾根の登り坂からは右上に仰ぐように「鐙山(あぶみやま)」が見えている。その肩まで登って行かなければならないのである。

右下方に谷音を聞きながら、4人が並んで歩けるほど広い街道を行くと、やがて丸太の土止め階段が始まる。
この辺りの自然は美しく、深山幽谷の趣があり、なるほど野根山街道風景林だけあると感心する。
それにしても鐙山はまだまだ高く遠い。


自然林の中、広い街道をゆく。

ところで、一歩一歩を確かめるようにゆっくりと登る坂の途中で、「四郎ケ野峠まで3.6Km、一の門へ0.2Km、鐙街道・矢筈林道まで0.5Km」の指導標を見つけた。
どうやらここから右手に下り、先ほどの谷の源頭部を渡ると500mほどで林道に出ることが可能らしい。
非常時のエスケープとして、記憶しておくと役に立つこともあるだろう。

さて、矢筈林道への指導標から5分ほどで、坂道を尾根まで登ると「一の門」に到着する。
ここには「四郎ケ野峠まで3.8Km、岩佐関所まで5Km」の指導標が立っている。
かたわらには展望板もあるが樹木に覆われ、現在、室戸岬を見ることは叶わない。
「一の門」は、佐喜浜の奥地「桑ノ木」への分岐点でもあり、ここから南へと下る道には「桑の木にいたる」との案内があり、その佐喜浜にいたる小径は今も健在のようである。
なお、ここから東洋町と室戸市の境に沿って尾根を駆け上がり、高知営林局の境界見出し標や山界標石を辿ると三角点のある小坂山(784m)に至る。


佐喜浜への分岐でもある「一の門」。

「一の門」には野根山街道保存協議会の古い看板もあり、そこには佐喜浜で有名な「三次ばなし」が記されてある。
佐喜浜の奥の桑の木というところには、三次という木登りの名人がいたと伝えられる。この三次は木から木を逃げる猿を追いかけていって手で捕まえるほどであったといわれ、参勤交代の折の「御影松の古枝落とし」はこの三次の仕業だったといわれる。さらには、佐喜浜から奈半利まで来るのに木から木を伝わって地面に下りる必要がなかったとも伝えられている。まったく人間離れした人もいたものである。
この案内板を読み終えるとどこからともなくサルの鳴き声が聞こえた。誰とは無く「あ、三次だ」と、叫んだ。

「一の門」を出発すると、丸太の土止め階段を登って行く。後方には樹間からかすかに小坂山が見えている。
街道は「一の門」から2〜3分で平坦になり、なだらかに行くと、間もなく参勤交代の一行が休んだといわれる「小野(この)御茶屋の段休憩所」に着く。
街道で一番広く平坦な休憩所には石垣で段が作られ、かつて殿様が休んだであろう場所にはベンチなどが整備されて、今はハイカーの格好の休憩所となっている。以前この辺りは樹木を切り払い展望も楽しめたようだが、現在は再び樹木に覆われ展望は利かなくなっている。


大名行列が休憩をとったといわれる「小野御茶屋の段」。

「御茶屋の段」を過ぎると、林にヒメシャラなどを眺めながら、街道を西へと鐙山に向かう。
茶屋の段からしばらくなだらかに来てから少し下ると、コルで右手に水溜まりが見える。イノシシなら大喜びしそうなヌタ場である。
ここから街道は登り坂になる。

鐙山への登り坂は、風倒木が道をふさぎ、木の枝が散乱して荒れ気味になっている。
間もなく街道は右手のピーク「鐙山」の左山腹をトラバースしてゆく。
野根山連山のひとつ、東洋町の最高峰「鐙山」の頂は帰路に立ち寄ることにして、ここでは入り口だけ確認して先を急ぐ。


倒木が散乱し荒れ模様の街道をゆく。

ひとまず次の目標地点である五里塚までは、ほぼ同じ勾配の登り坂が続き、足には少々疲労が溜まってくる。
辺りにはガスが立ちこめ、ところどころに大きな天然スギの切り株や、ヒメシャラ、アカガシの大木がガスの中から現れる。静寂とした林の中を行くと、これが一人なら寂しい思いに引き返したくなるかもしれない。

やがて街道は「桑の木」へ下るそば道を通過し、影平山の右手を巻いて、五里塚に到着する。
ちなみに、五里塚の少し手前でとぐろを巻いた小さなマムシを見かけた。

五里塚には案内板や「五里塚」と刻まれた石柱が設置されている。
ほぼ4Kmごとにおかれた里程塚は、奈半利町米ケ岡の車道脇にある一里塚から数えてここが五番目にあたる。
しかし、二里塚や四里塚のようにはっきりとした遺構は認められない。


五里塚にて。

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