ピークが近くなり、木々はまばらにスズタケは深くなる。ガスで濡れたササの葉は重く、縦横に絡み合うスズタケの枝が身体にまとわりつき、足元は皆目見えないので数歩進むのにも苦労する。ササに隠れた岩や倒木につまずきながらピークらしき辺りを散策する。ここまで27番鉄塔から20分あまり、26番鉄塔の峠からは40分以上経っている。


ササ原にブナの木。こんな距離でもブナのたもとまでは悪戦苦闘を強いられる。


なだらかなササ原にブナが点在し、これで肩までのササがせめて膝までなら言うことはないのだが、自然はわがままな私の思い通りにはならない。
遠くから見れば箱庭のような風景も、いざそこに立つとなると大変なのは承知なのだが。


肩まであるササ原の中を散策する。

ササを漕ぎ、苦労して辿ったひとつひとつの景色を大切に胸に納めながら、ガスがかかり始めるのを期にササ原を最後にする。


ササ原のピークから大ボシ山の山頂(中央やや右手のピーク)を眺める。コルには26番鉄塔も見える。

往路に付けてあった「印」を回収しながら27番鉄塔まで約20分で下山する。
後は、鉄塔巡視路を逆に辿り、登山口まで帰る。
峠の26番鉄塔に着く頃にはガスも晴れ、遠望を楽しみながらの下山は名残惜しささえ感じた。

*全行程の私の所要時間(コースタイム)は以下の通り。
【往路】
林道のゲート<8分>登山口<16分>20番鉄塔<14分>21番鉄塔分岐<20分>22番鉄塔<8分>23番鉄塔<12分>24番鉄塔分岐<20分>25番鉄塔<5分>26番鉄塔<10分>山頂

【1429mのピーク往復】
山頂<5分>26番鉄塔<17分>27番鉄塔<20分>ピーク<20分>27番鉄塔<21分>26番鉄塔

【復路】
26番鉄塔<5分>25番鉄塔<10分>24番鉄塔分岐<5分>23番鉄塔<6分>22番鉄塔<14分>21番鉄塔<12分>20番鉄塔<11分>登山口<6分>林道のゲート



備考

林道ゲートのそばには小さな谷があり、試飲はしていないが、利用はできそうである。

帰途には柚ノ木地区の「轟の滝」に立ち寄った。
高知県に「轟の滝」と呼ばれる滝はいくつも有るが、香北町柚ノ木の日本の滝100選「轟の滝」は、1960年にはすでに県の天然記念物や名勝地の指定を受けていたほど有名かつ見事な景観を持っており、県内でその存在を知らない人は少ないであろう。
落差40mあまりを3段に流れ落ちる滝は、新緑や紅葉など四季折々に素晴らしい表情を見せてくれる。近くには茶屋があり、下山後の一服には最適である。滝への手軽なルートとして、轟神社から急な階段を降りて橋を渡り、対岸の展望台に行けば滝の全容を眺めることが出来る(他にも散策コースが整備されている)。


最下部の落ち込み(橋から撮影)、その水量と景観は高知県の滝の横綱といえる。


*滝には悲しい「玉織姫」の伝説が伝わっている。
それは、建久15年(1204年)晩春のこと。柚ノ木に住む伊達三太夫(かつて平教経の家来だった平良種と言われる)には、比類無き機織りの技術を持つ美しい娘「玉織姫」がいた。ある日、娘は「轟の滝」の淵に架かる吊り橋を渡っている時に、突然淵の底から現れた大蛇にさらわれてしまう。
悲報を聞いた平良種は娘を救うべく、家宝の刀を手にその滝壺に身を投じるが、二人とも滝壺から浮かんでは来なかった。しかし、淵の奥底深くで父娘は念願の再会を果たしていたのである。がしかし、娘は父に、滝の主に思いをかけられ2度と現世には帰れないことを告げ、別れにと絹の織物を形見として差し出すのであった。仕方なく紫藍の水底を後にして父は現世に帰るのである。
父、三太夫が現世に帰ってきたのは父娘が滝壺に入水して3年、ちょうど3年祭の日のことであったという。

猪野々地区の猪野沢温泉跡にある「渓鬼荘(けいきそう)」は、御在所山の項でも触れた歌人「吉井勇(よしいいさむ)」が昭和9年より3年ほど住んでいた庵である。
*吉井勇(1886〜1960)=明治19年10月8日東京生まれ。昭和35年京都にて没、享年74歳。明星派の歌人。歌集「人間経」「天彦」など。
土佐の自然をこよなく愛し、「渓鬼荘」を中心として土佐での約6年間に、数々の歌を残している。
「物部川、山のはざまの、風さむみ、精霊蜻蛉、飛びて日の暮るる」(猪野々郵便局横の歌碑)、「寂しければ、御在所山の山桜、咲く日をいとど、待たれぬるかな」(渓鬼荘上の歌碑)などがある。


「大土佐の韮生山峡(にろうやまかひ)いや深く、われの庵(いおり)は置くべかりけり」(吉井勇)。歌の通り、今も韮生の山々に抱かれる「渓鬼荘」。手前は猪野沢温泉跡。

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