大峰山 2003年3月30日他
里山や超低山に親しむ以前は、鎖場といえば石鎚山などに代表される様に世俗と隔絶された奥地だとばかり思っていたが、県内をくまなく歩いてみると以外にも身近な所で本格的な行場に出会って驚かされる。
今回紹介する大峰山は標高200mという超低山にも関わらず、その山名から察する通り大和の大峰山を勧請する修験の山である。
山中には12ケ所の荒行場が点在し、中でも二双の大岩がそそり立つ奥の院の鎖場は最大の難所であり見所でもある。
しかし、祭事は近年簡素化され、そんな行場も忘却の彼方に押しやられようとしている。
今回はできうる限りの行場を辿りながら、山頂に立つ奴田山大峰山竜王寺(*1)を訪ねてみた。
(*1)ぬたやまおおみねやまりゅうおうじ。竜王寺は龍王寺とも書く。奴田山は大峰山山頂の字名である。
大峰山は土佐山田町影山の南にあり、林田の東にある。
国道195号線の神母ノ木(いげのき)から県道22号(龍河洞公園線)に入り、鏡野公園入り口を過ぎると間もなく大峰山の麓にさしかかる。
県道22号線の影山バス停から少し東で林田地区に入ると、大峰山の西麓を巻くように南に600mほど進んで、突き当たりは左折し谷沿いに100mほど行けば前方に神社(若一王子宮)が見えてくる。大峰山へはこの神社から歩き始める。
神社の境内か、付近の空き地に駐車し身支度を整える。
登山口。ここから車道脇のフェンスの間を通り奥に向かう。
神社の脇の車道を数十メートル歩くと左手に大倉池と呼ばれる貯水池があり、路傍には記念碑が立っている。大倉池はバスフィッシングも有名で、満々と湛えられた水は流域の田畑を潤している。
ちなみに、この大倉池は後藤象二郎(*2)の先祖が藩政時代の初めに築造した溜池だと言われている。
まずはこの人工池の堰堤を対岸へと渡る。
(*2)後藤象二郎=1838年高知市生まれ。政治家。山内容堂に大政奉還をすすめた立役者。明治維新後、参議、逓信大臣を務める。元禄の地払帳に登場する後藤忠丞が象二郎の先祖で、その忠丞の先祖が大倉池を築造したといわれる。
登山口にある大倉池。左手に見える大きな杉の木のもとには山の神の社がある。
堰堤を対岸に渡ると正面に「龍王寺参道」の道標があり、矢印は右向きに、池の上方へ延びるしっかりした道を指しているが、この道は下山に利用することにして、ここは正面の山肌をよじ登る。
3mほど登ると左手にシイタケ栽培のホダ木が見える。
植林の中、そのシイタケ木の上のかすかな踏み跡を辿り左へトラバースするとすぐに右上の山腹に大岩が現れる。
岩の下方には古びた石室があり、鉄製のドアは外れ、蔵王権現と記されていただろう文字も剥がれ落ちて、今は「権現」だけが見て取れる。
かつてこの石室は山頂に祀るご神体(蔵王権現)を収納していた保管庫だったが、今から15年ほど前にその役目を終えると同時に壊れたといい、現在はご覧のように使われなくなって久しい。
林の中で口を開けている石室。この岩場が最初の行場である。
ところで、石室のある岩場が実は最初の行場で、大岩の左手に回り込むと、岩上から下げられた鎖が目に入る。
もちろん注意して鎖場を登ってもよいが、その際は鎖が大丈夫なのか充分に確かめておく必要がある。
なお、そんな危険を冒さなくても、鎖場の上には岩場の左手を迂回すれば容易に立つことができる。
そして、第1の行場である岩場からはさっそく西方向に展望が開けて、正面に雪ケ峰城跡(楠目山)を、眼下に林田地区の家並みや田畑を見下ろすことができる。
石室の上の岩場で鎖をよじ登る。
ところで、最初の行場である岩場を巻く時、林の中で左手に小さな社を見かけるが、その社の裏側には元禄2年(1689年)の墓石がひっそりとある。
そこに供養されているのが誰なのかは分からないが、あるいは大峰山北麓の地蔵寺(*3)の成立に某かの関係があった人かもしれない。
この辺りにある墓石の中でも最も古いと思われ、例えばその頃の住職の墓であったのかもしれない。
地蔵寺の住職は代々大峰山修験の先達を務めており、そうなれば大峰山修験の成立にも関わる興味深い話しだが、残念ながら詳細は定かでない。
(*3)正式には宇田寺といい、通称地蔵寺、あるいは地蔵堂、古くは地蔵院ともいう。「南路志」に「影山舟谷村、地蔵寺ヤシキ山伏宝学院ヤシキ」とあるものと思われる。
石室のある岩場の上からの展望。正面になだらかな雪ケ峰が横たわる。
さて、石室の岩場から上へは少しヤブになるので、一旦左手の植林に下りてから上に向かうと、すぐに辺り一帯は墓地になる。
古めかしい墓や改葬された墓跡など、集団墓地の間を真っ直ぐに道は上に向かっている。
その山道は踏み跡もしっかりしているのだが、赤土でできた石はまるで油をこぼしたようにつるつるてかてかと光り、うっかりすると足を滑らせてしまいそうである。故に、この辺りは「油こぼし」の行場と呼ばれたそうで、これが第2の行場にあたる。
いにしえの修行者とは違って立派な登山靴を履いた私たちは、修行にはならないかもしれないが、おかげで一度も足を取られることなくひとまず安心した。
さて、参拝道であり行者道でもあった山道は集団墓地を抜けてシダの中を登り、植林の中へと入って行く。
ここで右下に大岩が散在する場所を見つけたので、あるいは「鐘かけ岩」などの行場かと好奇心で寄り道してみたが詳しくは分からなかった。
シダの茂る山道を登る。