登山口から30分あまりで前方が開けてくると土予県境の稜線に出る。
振り返ると遠くに白髪山(本山白髪)の尾根にササ原が見えている。
前方には立派な榜木や歌碑が立てられており、このなだらかな場所が参勤交代の行列も休憩をとったという笹ケ峰峠(笹峠)である。
この峠を明治維新の偉人たちや、あるいは坊さんかんざしで有名な純心が土佐を追放されたおりなど、様々な人々が様々な思いで越えていったのである。
ここに立つ榜木(俸木)は、旧官道「北山越え」の道を後世に伝え高知愛媛両県の交流を深めようと昭和54年に大豊町・新宮村・川之江市の3市町村で結成された「古代官道調査保存協議会」が、消滅していた榜木を昭和57年3月28日に復元したものである。
榜木には「従是北伊豫国/従是南土佐之国」と記されている。
また、平成6年11月13日に建立された石碑には、土佐藩中興の名君といわれる九代藩主山内豊雍(とよちか)侯が安永3年弥生8月、参勤交代の道中笹ケ峰で詠んだという和歌が刻まれている。
歌碑には「朝風の音するミねの小笹はら聲打ませて鴬ぞなく」(あさかぜのおとするみねのこざさはらこえうちませてうぐいすぞなく)(土佐国資料集成「南道志」参考)と刻まれている。
なお、ここは明治以降、旅人のためにわらじや餅などを売る茶店も出されていたという。
峠には榜木や歌碑が立っている。笹ケ峰山頂は左手の小山である。
笹ケ峰山頂は峠から左手(西方)にササの中の踏み跡を駆け上がれば1分足らずの場所にある。
そう広くはない山頂には図根点の標石と嶺北ネイチャーハントの山名板がある。
山頂は残念ながらブナなどの木立に囲まれて展望は良くないが、木々の間から覗けば西に橡尾山(とちおやま)を眺めることはできる。
ここからササの中を漕いで行けば笹ケ峰4等三角点の標石を経て橡尾山に縦走することも可能だが踏み跡は薄い。
今回の私たちは橡尾山とは反対に東の三傍示山(さんぼうじさん)をめざすことにした。
新緑の美しいブナに囲まれた笹ケ峰山頂。
ところで、三傍示山をめざすために山頂を後にした私たちは、その前にこれから向かう三傍示山の山容を確かめておくために、旧官道を更に愛媛県側に向かい地蔵の立つ通称「杖立さん」へと向かった。
かつて県境を越えるためには住所氏名、年齢、旅行目的などを記して役人の証判が押された道切手が必要であり、麓の立川番所では出入りする者を厳しく取り締まっていた。それがほんの130年で、これだけ自由に歩き回れることは嬉しい限りである。
本道以外の横道を歩くことさえ禁止されていた時代なら、脇道に逸れるのが得意な私たちは一歩を踏み出した途端に厳しい処罰を受けていたことであろう。
笹ケ峰峠からなだらかに北へ向かい、ブナの新緑が美しい林の中を歩いてゆくと、樹間から西には橡尾山からカガマシ山の稜線が見えている。
その肩越しには嶺北東部の雄、奥工石山(立川工石)が頭を覗かせている。
雰囲気の良い尾根道を北に向かう。
笹ケ峰峠から7分ほどで笹ケ峰山頂から400mほど北に位置する「杖立地蔵」に着く。
ここには道中安全祈願のために立派な地蔵が1基安置されており、この地蔵は今から140年あまり前(安政5年=1858年)、愛媛県馬立村栄谷の内田種治氏の寄進によって建立されたものである。
地蔵の台座には「安政5年3月吉日、願主 栄谷 種治、世話人 馬立村栄谷 清助 忠吉」らの名が刻まれており、「奉造立尊像者、為道中安全、為諸人快楽」と祈願の銘も見える。
かつて往来が盛んだった頃、ここには杖が何本も立て掛けられ、それが杖立の由来でもあった。
旧官道はここを過ぎるとぐんぐん標高を下げながら馬立本陣に向かって行くのである。
街道を行き交う人々の安全を守り続けている杖立地蔵。
さて、杖立地蔵の左脇を駆け上がり地蔵の裏に回ると東方向の展望を望むことが出来る。
そこにはこれからめざす三傍示山の頂が見えており、その右奥に野鹿池山が、また左手には塩塚高原も見えている。
目的の山を確認した私たちは杖立地蔵から笹ケ峰峠まで、もと来た道を引き返し、県境の稜線に居並ぶ逞しく美しいブナ林を歩いて三傍示山をめざしたのである。
(三傍示山に続く)
*全行程の私たちの所要時間(コースタイム)は以下の通り。(三傍示山縦走も含む全行程のコースタイムは三傍示山の項にまとめます)
【往路】
登山口<34分>笹ケ峰峠<1分>笹ケ峰山頂<7分>杖立地蔵
【復路】
杖立地蔵<5分>笹ケ峰峠<20分>登山口
備考
高知城下と伊予川之江を結ぶ「北山越え」の道は、笹ケ峰峠から愛媛県新宮村に入り、「杖立さん」「笠取峠」「腹包丁」と続き「馬立本陣」を経て川之江市にある「土佐藩・長野本陣跡」へと至ります。(更に、参勤交代の一行は川之江から瀬戸内海を渡り中国路から江戸をめざしました)
土佐藩の参勤交代は、はじめは紀伊水道を通る海路を使っていましたが、暴風雨の海難に困り6代藩主山内豊隆侯からこの街道を使用するようになり、16代藩主山内豊範侯の時代まで約146年間続いたと伝えられています。
なお、北山越えの街道に興味のある方は、大豊町・新宮村・川之江市の各教育委員会に相談されれば、古代官道調査保存協議会が発行している詳細なルート図が書かれた「歴史の道・土佐北街道」のパンフレットを手に入れることができるでしょう。
また、この山のほぼ真下には高知自動車道笹ケ峰トンネルが抜けており、馬立PA(パーキングエリア)から笹ケ峰トンネル方向を見ると笹ケ峰北面の姿を確認することができます。
旧立川番所書院(通称立川御殿)は、高知県長岡郡大豊町立川下名(刈屋)28番地にあり、国の重要文化財に指定されています。
旧立川番所書院は土佐の「三関」つまり「三大番所(他に岩佐口番所・池川口番所)」のひとつであり、古代官道の北山越えで参勤交代に出た土佐藩主の土佐路最後の宿所となっていました。
立川番所(立川下名口番所)は西暦797年から立川駅(丹治川駅)として利用され、参勤交代には六代土佐藩主豊隆公の時(西暦1718年)から宿所として利用されていました。
現在の建物は、番所役人だった川井惣左衛門勝忠が寛政年間(1789−1800)に建築したもので、明治になってから個人の手に渡り一部改築され旅人宿(旅籠)になっていましたが、昭和48年に大豊町が譲り受け、翌49年に国の重要文化財に指定されました。
その後、昭和57年には3年間かけた解体復元工事が完了して現在の姿になっていますが、もともとの建物はこの倍はあったといわれています。
桁行17.7m、梁間12m、寄棟造り(一部入母屋造り)、茅葺き、面積212平方メートルです。
立川御殿の外観と書院造りの内部。
立川御殿の近くには「御殿茶屋」があり、ここの名物「立川そば」は超絶品のひと品です!
祖谷や信州あるいは出雲などの不思議なスマートさや、やたらに講釈高いそば屋さんに比べればはるかに異質ですが、純粋にそば粉の風味が生かされた素朴な味はきっと忘れることが出来ないと思います。
自信を持ってお奨めしますが、日曜祭日しか営業していないのはほんとうに残念な限りです。
「碁石茶」は「幻のお茶」ともいわれ、そのルーツは中国雲南省やミャンマーにもとめることができます。
「碁石茶」は7〜8月にかけて茶の葉を蒸して発酵させ天日に干して製造するのですが、現在その製法を伝え伝統を守っている人は極少なく、幻のお茶と言われるゆえんでもあります。碁石茶の里ともいわれる大豊町梶ケ内(東梶ケ内)・桃原地区に行けばまだその製造を一部見ることが出来ます。
なお、碁石茶とは筵(むしろ)に広げて干した様が碁盤に碁石を並べた形に似ているところから名付けられたとようで、最近では草木染めの原料としても使用されています。
(碁石茶は「道の駅大杉」などで手に入れることができます。通信販売も可能だと思いますが、詳しくは直接「道の駅大杉/TEL0887−72−1417」にお問い合わせください)