帰りに辿る九頭への山道を確認しておいてから、頭上に見える頂へと向かった。
護摩壇や石祠を見ながら登り始めると、道の脇では「ぞうやく(増益)善神」や修験者の守護神である「不動明王」の石仏が迎えてくれる。
登山道はすぐに分岐に出会うが、右に向かうと山頂である。しかしここでは大滝山の見所でもある岩場に立ち寄ることにして、山頂は後回しにして左にとると林の中に向かった。
林に入るとすぐに岩場があり、いたるところに苔生した石仏が奉られている。その台座からは加茂村の他、山南村や吉川村などの村名が見てとれる。中にはすっかり苔生して背後の岩場に同化したものまであるが、山中を丹念に探せばちょっとしたゲーム感覚で楽しめる。
美しいセンリョウを眺めながら、そんな岩場を散策すると、大岩が複雑に組み合わされた自然の洞穴が見つかる。ここは「胎内くぐり」の行場であったという。このような行場は県内では奥神賀山や大峰山などにも見られ、擬死再生の観念を演じさせる重要な修験場のひとつであった。
この穴をくぐると出口の断崖には石仏が奉られてあるというが、勇気のない私はこの穴をくぐることができなかった。心に疚(やま)しいことのある者がくぐれば大岩が崩れて押し潰されてしまうという言い伝えが私を躊躇させたからである。彼女を度々置き去りにしては勝手気ままに自分だけで山に出かけていることを疚(やま)しく思わないわけにはゆかなかったのである。


山中で不気味に口を開けた胎内くぐりの洞。

それはさておき、この界隈に配置された石仏はいったい何であろう?、聞き慣れない見慣れない石仏ばかりである。
「りいちさいふい(離一切怖畏)善神」「かんき(歓喜)善神」「たいつらた(提頭羅宅)善神」「くごいつさい(救護一切)善神」「びるばくしや(毘慮博叉)善神」「ししこやう(獅子?)善神」など。
実はこれが「十六善神」(*2)といわれる石神だと知ったのはつい最近のことである。それまで、護法童子は本地垂迹思想に基づき護法善神とも呼ばれることから、これらの石仏も不動三十六童子と思い込んでいたのである。
すると、不動三十六童子の石仏は「せいたか(制多迦)童子」とこの後山頂で出会う「こんがら(矜羯羅)童子」の2体だけになるが、それなら不動明王の脇侍ととらえた方がスッキリする。対して、十六善神の石仏が7体、そして弁才天十五童子(*3)のうち「せんしや(船車)童子」が1体に至り、その難解な組み合わせに、ほとほと頭を抱えてしまったのである。
山中にはまだまだ私の知らない石仏がたくさんあるに違いないので安易な結論は出せないが、もしこれが十六善神の石仏であれば、それはわずかに広島県白滝山の磨崖物などで知られるだけの極めて稀なもので、しかも各善神の独尊的石仏は全国に例が無いともいわれている。それだけに、ここ大滝山の善神は大変貴重な石仏群といえるのだが、ただ残念なことは知られている十六善神とは明らかに像容が異なるものがほとんどであることである。そして十六体が現存しているのかという疑問。
しかし、明治時代に十六善神の信仰が石神として姿を著し、ここ大滝山に存在するということは、やはり特筆すべきことなのである。

(*2)十六夜叉神などとも称し、「般若経」およびこの経を受持する人々を擁護する十六の護法善神。
(*3)弁才天の眷属である十五童子。場合によっては十六童子もみられる。船車童子はその第15番目の童子で、荷車いっぱい船いっぱいの穀をつかさどる。船車童子の石仏も非常に稀だといわれる。



山中の岩場に巧みに配置された石仏群。

信仰の岩場を更に回り込み、わずかな踏み跡を頼りに尾根に出ると、裏から山頂に至ることも出来るが、普通は引き返した方が無難である。一旦もとの登山道に戻ると山頂に向かう。
見上げるほどの巨岩のもとを通過すると、山頂直下の石段が現れる。ここで石段の下手に見える岩場に立ち寄ると、半肉彫りで素朴な表情を匂わせた不動明王の石仏を見ることができる。
山頂へは石段を登り、「こんがら(矜羯羅)童子」の石仏の脇を抜けて正面に明治12年奉献の手水石が見えてくると、その昔役行者(役小角)を祀ったお堂が建っていたという広場に出て、山頂に着く。

 
大滝山山頂(左)。手前に手水石、右手にお堂の跡の礎石が見える。中央の天頂岩には石鎚の祠がある(右)。

ヒノキやアセビが点在する山頂の、ひときわ高い岩(天頂岩)の上には石鎚の祠があり、鎖が垂らされている。その辺りからは眼下に日高村の集落や、背後のやまなみを越えてほぼ真北に石鎚山系を遠望することができる。それとは別に明治19年の石祠がある辺りからは、南西方向に虚空蔵山や蟠蛇森、鳥形山方面の眺望がよい。山頂には熊野修験ゆかりの大日如来像らしき石仏もみえ、お堂が建っていたという広場には四隅に礎石も残されている。大滝山は大和金峯山の金峯神社を勧請して山頂に祀っていたといわれ、文政10年(1829年)には大和大峰山の出張所が設けられていた。大滝山の信仰が改めて盛んになったのは明治に入ってからで、明治16年には高岳親王(真如)の刻像といわれる不動明王が授与されている。修験宗廃止が命ぜられた後の隆盛は皮肉なことではあるが、敬虔な信者により"山"は守られてきたのであり、それが明治20年に改めて大峯山の出張所許可を県より下付される結果ともなったのである。
なお、その不動明王像は現在、護国寺の本尊として日高村の文化財に指定されている。


明治19年の石祠からは南西に虚空蔵山方面の眺望がよい。

ところで、大滝山の三角点は山頂の南にある。
山頂からシダに覆われた踏み跡を尾根沿いに辿ると、「こくぞうぼさつ(虚空蔵菩薩)」の石仏の傍を通り、「山姥の洞窟」に下る山道との分岐を過ぎるとマツが生えた小さなコブに出る。そのコブを越えると、鬱陶しかったシダも消えて植林の中に入る。と、すぐに立木に赤いテープが見える。ここで正面のコブの左山腹にトラバースするかすかな踏み跡があるのだが、右に巻く尾根道の方が明確なので、うっかりすると行き過ぎてしまう。
無事に踏み跡を見つけたら、山腹をトラバースして正面のコブから左に派生する支尾根に乗り、地籍の筆界杭を辿って小さなコブを越えると、シダに覆われた標石が見えてくる。点名は「九頭」である。
四等三角点の標石だけ確認すると往路を引き返す。


シダに覆われた三角点。

帰路は、大滝公園まで引き返してから九頭の集落に下ることにする。
46番の送電鉄塔に向かう道を下り始めるとここにも巨岩が聳えている。辺りには大規模な石積みを残す農耕地跡があり、現在は耕作放棄されて植林になっている。46番鉄塔に向かう巡視路と別れると苔生した岩を踏みながら植林を下る。
尾根に出ると間伐の待たれる植林を進み、やがて尾根の踏み跡と別れ、右手に明確な山道を辿る。こちらは最近間伐されたばかりの明るい植林である。右下に巨大な砂防堰堤が見えてくると、左上に元高知歩兵44連隊ゆかりの護国招魂社が見えてきて、護国寺のそばを通り、九頭の集落に下り立つ。
あとは車道を歩いて登山口まで引き返すのだが、途中、大きなエノキのもとに祀られたお大師さんや、大滝山に勧請されていた金峯神社を合祀する大元神社に立ち寄ったりと、寄り道しながらの帰り道だったのは相変わらずのことだった。


九頭に下る山道。

ところで修験といえば、歌舞伎十八番の「勧進帳」に現れる弁慶や四天王のイメージが強いが、創作当時の天保年間でも兜布(ときん)や梵天(ぼんてん)の篠懸(すずかけ)で修行に励んだ山伏は少なかったようである。しかしどんな装束であれ、どんな行場であれ、自然と一体化することで悟りを得ようとした修行者は、大峰の「奥駆け」であれ、ここ大滝山の山中であれ、信仰のベクトルは同じだったはずである。
神降臨や山中他界観といった山界の信仰から神仏習合の末に産まれた日本独特の「修験道」は、その象徴として「紀伊山地の霊場と熊野古道」が世界遺産に登録されたのだが、その礎として、或る時代を共に刻んだ四国各地の霊山も、忘れてはならない遺産なのである。




私のコースタイムは以下の通り。
【往路】
登山口<3分>展望広場<15分>44番送電鉄塔<13分>大滝山公園<5分>山頂<11分>三角点
=47分
【帰路】
三角点<8分>山頂<3分>大滝公園<16分>護国寺<8分>大元神社<10分>登山口
=45分


登山ガイド

【登山口】
高知市方面からだと、国道33号線で日高村に入り、JR岡花駅の入り口を過ぎてまもなく国道脇に「日高村総合運動公園入り口」の大きな看板が見えてきます。そこから左手に国道を離れて鹿児橋で日高川を渡り、メダカ観察池(日下川調整池)の縁を通り運動公園入り口をやり過ごすと、国道から500mほどで立派な案内板の立つ大滝山登山口に着きます。車は運動公園に駐車します。

【コース案内】
指導標が整備されていますから、山頂まで迷うことはないと思います。ただし、山頂から三角点までは道標もなく、文中で触れたコースサインを見落とすと迷ってしまう恐れがあります。三角点に迷わず辿り着くためには正確な読図能力が求められます。
また、山頂手前の岩場にある「胎内潜り」の洞から裏に回り込み、山道を登ると、「虚空蔵菩薩」の石仏から三角点寄りの尾根に出ることができます。
なお、帰路は往路を引き返すのが一般的ですが、私と同様に九頭の集落に下る場合は「道標」がありませんので注意してください。分岐で迷った場合は、右下に向かう道をとれば良いでしょう。
また、九頭の集落手前で護国招魂社(護国神社)に立ち寄る場合は、右下に砂防堰堤を過ぎた辺りで、分岐を左に登ります。 境内には故吉田茂首相の慰霊塔や明治38年の石鳥居、自然石の手水石などがあり、石段を下ると護国寺に出ます。
大元神社は帰路に歩く車道から南に立派な社殿が見えています。大元神社には
文化年間の手水石や昭和2年の鳥居などがあります。


備考

登山道に水場はありません。

扉ページの標高は三角点の標高を採用しました。

文中に登場する石仏石神の「名前」について、実際はすべて「ひらがな」で刻まれていますが、私の同定で可能な限り「括弧()書き」で本来の漢字を充てました。しかし、同定できなかったものや誤った同定については、ご教示くだされば幸いです。些細なと思われるようなことでも、大変役に立ちますのでどうか教えてください。

大滝山の東山麓には安政5年に発見されたという有名な「猿田洞(猿田石灰洞)」があります。猿田洞の洞内は1422mあり、この中ではあの著名な忍者「茂平」が忍術の修行をしたとも言われています。文中に出てきた「五郎が滝」の「五郎」の生家もこの近くだったそうです。この洞の入り口付近からは、土佐の名水にも選ばれた「猿田洞の長寿泉」がこんこんと湧き続け、古来より長寿の水といわれています。


猿田洞に興味のある方は日高村教育委員会に許可を得れば洞内に入ることができます。夏には格好の避暑になるかもしれません。

この文を記すにあたり、日高村役場企画課の藤田さんに大変お世話になりました。この場を借りて改めてお礼申し上げます。


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