等高線の通りに波打ちながら三光ノ辻山の南西斜面を進むと、大きな尾根の張り出しで赤い境界杭や愛媛県の標柱に出会う。木々の間からは南西に遠く大川嶺連峰が覗いている。
やがて、登山道の周囲が植林だらけになると再び尾根の張り出しで愛媛県の標柱に出会い、間もなくスギの切り株に赤いテープが2段に巻かれた、何となくそれらしいコースサインを見つけるが、ここは無視して通り過ぎる。
山頂の南西斜面をトラバースする。
やがて、なだらかにトラバースしてきた道の右手に、折り返すように上方に向かう登山道が現れる。ここまで峠の地蔵からおよそ30分。
分岐には道標などは無いが、明確な道に赤テープなどのコースサインがあり、容易にそれと判る。
ちなみに、ここをそのまま行き過ぎると面河村三ツ崎に至り、途中で美川村との村界尾根に立つ地蔵から尾根を東に登っても三光ノ辻山山頂に至るようである。
さて、分岐からは植林の中をしばらく登り坂が続く。
往還から別れて山頂に向かう分岐にて。赤いテープなどの目印がある。
幾度か折り返して標高を稼いでゆくと分岐から15分あまりで尾根道と合流し、間もなく明瞭な踏み跡と別れて、ピンクのテープを辿りながら更に上方を目指す。
踏み跡は無くなり、足場の良くない植林の中、短い間隔でいくつも付けられたピンクのテープをひたすら辿って行く。
このところこんな山行きと無縁だったせいか、あまりにも退屈で面白くない直登に正直うんざりしてくる。
案の定、前を行く彼女もいつの間にか無口になって、ただただ惰性で足を出すだけの登行が続く。
植林の中、コースサインを辿って山頂を目指す。
ようやく尾根に出ると東に向けて踏み跡が現れ、間もなく山頂かと思うと足元に標石が現れるが、残念ながら三角点のそれではなかった。
よく見れば、前方にはまだ高い峰が見えている。そこに向かってコースサインを辿りながら正面の急斜面にとりつく。
周囲には灌木が多くなり、ほんのりと色づいた広葉樹の間を登って行くと、山頂の手前で振り返ればいつの間にか南方向の展望が開けている。
そこには水の峠(みずのとう)から雑誌山(ぞうしやま)への尾根筋が目の前に横たわっており、昨年の秋に日暮れまで歩いた遠く長い林道のことが思い起こされる。あの時は少々冒険も過ぎたが今思えば懐かしい武勇伝でもある。
山頂手前から南の展望。
さて、雑誌山から西に稜線を目で追うと右奥には中津明神山が見えており、山頂近くに立つ無粋なアンテナもここからはっきりと確認できる。
そして、手前には二篦山(ふたつのやま)が覗き、足元から延びる県境の尾根は放物線を描いてそこに向かっている。
かつて土佐と伊予を結ぶ主要道のひとつであった松山街道はこんな山懐を縫って歴史を紡いでいたのである。
しかし、登山道中唯一の展望は残念なことにただこれだけなのである。わずかな風景をカメラに収めて再び歩き始めると、ほどなく三光ノ辻山の山頂に着いた。
三光ノ辻山山頂にて。ササをかき分け、三角点の標石に挨拶をする。
三光ノ辻山山頂は想像したよりもはるかに狭くて居心地が良くない。
樹木に囲まれて展望は得られず、わずかに北方向に石鎚山を望むことはできるが、その東にある筒上山などは葉陰からちらちら山肌をかすめ見る程度である。
冒頭で書いたように、かつてはこの辺りの山がどこもそうだったように草原に覆われて見事な展望が開けていただろう山頂も、今では眺望などどこからも望むことはできない。
その頃は子供達でさえ麓の瓜生野集落から三光ノ辻山の峰を越えて面河村まで遊びに出かけていたというが、そんな面影はどこにもない。深い笹に、覆い被さるような樹木は腰を下ろすのさえ躊躇われる。
穏やかな晩秋の一日、展望は望めなくても秋色に彩られた林の中でゆったりとした昼食を楽しみたいと思っていた二人の思いは無情にも潰えた。
小さな山名板と共にクマザサに埋もれた3等三角点の標石に簡単な挨拶を済ませると忽ち山頂を後にすることにした。
山頂にて、木々の間から石鎚山を遠望する。
下山は往路を引き返し、約1時間で登山口に帰り着いたが、終始ご機嫌斜めな彼女をなだめることはできなかった。
しかし、帰路に美川村の食堂に立ち寄り、芋の煮っころがしを口に運べばその素朴な田舎の味わいに破顔一笑。目の前でお芋のようにころころと笑い出して、ようやく私も胸を撫で下ろし名物美川ラーメンを勢いよく啜(すす)ったのだった。
*全行程の私たちの所要時間(コースタイム)は以下の通り。
【往路】
登山口<27分>地蔵<9分>水場<57分>三光ノ辻山山頂
=計93分
【復路】
三光ノ辻山山頂<37分>水場<7分>地蔵<17分>登山口
=計61分
備考
山中の水場は涸れていることが多いように思われます。あてにされない方が無難です。