三方山  2002年7月21日

三方山はその名の通り、高知県大豊町と徳島県東祖谷山村と西祖谷山村の三町村を山頂で分かつ土阿県境の山である。
この山が京柱峠の西に存在することを知ったのは、今から7年ほど前に徳島県の登山者が出した紀行文が最初だった。
それ以来、いつか高知県側の赤根川源流部から挑戦してみようと思ったものの、ろくな調査もしないで無為な時間だけを過ごしてしまい、結局今回は徳島県側から登ることになった。

今回登るコースの登山口は徳島県東祖谷山村今久保集落の上方にある。
高知県からだと国道32号線を北上し大歩危付近から観光地で有名な祖谷のかずら橋に向かう。
かずら橋の隣りに架かる車道を南岸(祖谷川左岸)に渡ると右折して上方に向かい、やがて出会う三叉路は左折して標識にある「中尾」の集落をめざす。
やがて中尾集落の上手を通過し、舗装が切れて地道になると、かずら橋から8Kmほど走って来て右カーブの左手に貯水槽が見えてくる。
実は、この貯水槽がある所も三方山への登山口で、地図に破線が記されているのもこのルートである。
ここの取り付きは山手が切り通しの崖なのでわかりにくいが、山手によじ登れば明瞭な道が尾根を走っているので、ここから登っても良い。
今回私達が登る登山口からの道も上方でこの道に合流することになる。
貯水槽の脇には若干の駐車スペースもある。

しかし私達はこの貯水槽をやり過ごして更に車道を走り、道路脇に放置された廃車を過ぎて間もなく車道が植林に入ると右側の立木に赤テープが巻かれ白いプレ−トの下げられた登山口を見いだして車を止めた。
ここが通称「今久保登山口」である。

なお、車道を更に奥に向かうと、左手に作業小屋らしき建物を過ぎて今久保谷川
(*1)に架かる橋を渡り、右手に水槽が左手に廃棄された西祖谷山村の青い廃バスが見えてきたら、そこを500mほどで右手に再び白いプレートが見つかる。
ここは通称「中尾登山口」と呼ばれ、尾根を越え釣井分岐を経て丸山峠で今久保登山口からの道と合流している。
こちらからの道は急登もなく終始安定して明瞭な道が延びており、山頂までの所要時間も今久保登山口と大差なくお薦めの道である。ただし、一部複雑な地形を辿るので読図可能なことが前提ではある。

今回の私達は「今久保登山口」から登り、「中尾登山口」に下りてくるコースを辿ることにして、マイカーは今久保登山口そばの路肩に止めてザックを背負った。

(*1)今久保谷川を境にして西が今久保、東が中尾である。登山口もそれぞれ西が「今久保口」、東が「中尾口」と呼ばれている。


林道脇の今久保登山口。「丸山峠へ1時間、今久保口」と書かれた白いプレートが下げられている。

今久保登山口から植林の中を登り始めてすぐの分岐は赤テープを頼りに右手へ進み、少し行くと右手に林道跡(廃道)が見えてきて、今ではあまり手入れがされていないクリ畑が見えてくる。
登山道の踏み跡はやや分かりづらいが、道はこのクリ林の東端をかすめて、ずっと植林の中を上方へと延びている。
とにかく赤いテープを見逃さないように追いかけて行くと、登山口から10分ほど来て分岐になり小さな谷川と出会う。
ここでは谷川には降りないで、分岐を右手に、この谷に沿って左岸(上流に向かって右手)を登って行く。
やがて谷川の分岐から10分ほどでしっかりとした道に出る。
この道が尾根の張り出しにあった貯水槽から登ってきた道で、地図に記されている点線の道である。
ここからはかつての往還であるこの道を辿る。


往還を行き、上流で谷川を渡る。

往還の道に出ると間もなく谷川を渡り、ヒノキの植林の中の登り坂になる。
坂道の傾斜はさほどでもないがずっと続く登り坂は案外きつくて、途中何度も立ち止まっては小休止して上を目指す。
やがて雑木林を抜けて、再び植林に入ると、ようやく道はなだらかになり、ほどなく尾根のコルに出る。
ここから少々踏み跡がわかりにくくなるが赤いテープを辿りながら鞍部をなだらかに南に進み、谷を右下に見ながら崩壊地の上を通って、道なりに下ると植林の中を横切る立派な道に出る。ここが丸山峠で、「中尾登山口」から登った場合はここで合流することになる。
ここまで登山口から凡そ45分の道のりだった。

丸山峠は熊谷峠(*2)とも呼ばれ、東西に横切る往還を西(右手)に数歩行くと峠の地蔵がある。
地蔵には「安政二卯年九月廿四日」(西暦1855年)の年号と「兵衛門、滝太大八」の名が刻まれている。
この峠は、祖谷渓と吉野川を結ぶ往還の峠で、かつては西祖谷の今久保や中尾、東祖谷の釣井などの集落と、吉野川沿いの有瀬とを結んで数々の人が峠の地蔵に祈りを捧げてきた場所である。
話は逸れるが、その昔、かの弘法大師はこの峠の佇いに厳かなものを感じて、この界隈を四国版「高野山」にしようと考えたといわれる。
ところが、いざ修行の場とする谷の数を数えてみると天邪鬼(あまのじゃく)がひとつ隠してしまって百八谷(108)にはひとつ足らない百七谷(107)しかない。そこでここを霊場にすることは諦めたというのだが、これと全く同じ話は落合峠をはじめ、阿波の各地に数えきれないほど残されてもいる。
後生の私たちが考えてみても名峰の居並ぶ四国山脈においてこの候補地が甚だ不相応な点は否めず、それでかどうかはわからないが結局霊場の建てられることはなかった。
ただこのことは、それほどに郷土を愛した人々の思いを物語るものでもあり、それが人々の心に信仰を厚くしてこうして地蔵が安置されているとも考えることはできよう。

(*2)丸山峠とは峠のそばにある1154mのピークを「丸山」というところからこう呼ばれるもので、熊谷(クマガタニ)峠とは峠に源を発する谷「熊谷川」から名付けられたものである。有瀬ではクマガタニで通っているが、ここでは今久保集落などの慣例に従い丸山峠としている。

 
植林に囲まれた丸山峠と、そこに佇む舟形地蔵。

さて、この峠を越えていた幾多の人々と同様、道中の安全を祈願して峠の地蔵に手を合わせた後、東西の道を横切り私たちは再び南へと向かうべく腰を上げた。
しかし、丸山峠から南に明確な道らしきものは見あたらない。
ここからは植林の中の立木に巻かれたテープなど、少ないコースサイン(目印)を手掛かりに、山林作業者と気まぐれな登山者の薄い踏み跡を辿って正面の斜面を登って行かなければならない。
これ以降、山頂手前まで西祖谷山村と東祖谷山村との村界尾根をほぼ忠実に辿ることになる。

左手にヒノキの植林、右手に雑木林の境を登って行くと、西側の急斜面を駆け上ってくる涼風が心地良い。
時々立ち止まって風を呼び込みながら歩いて行くと、やがて急登になり、右手に見える踏み跡をやり過ごすと、標高約1200mのピークに立つ。
ここからは立木の間を通して北にめざす三方山の左肩を望むことができ、正面には次のピークが待ちかまえているのがわかる。

ピークからは一旦下り、すぐにヤセ尾根になって、岩場の上の小さなコブを越えてから第2のピークに向かい自然林の中の急坂を登って行く。
登り始めて5分ほどでクマザサの中にブナの立つ尾根の出会いになり、ミズナラやヒメシャラ、トサノミツバツツジなどの美しい冷温帯樹林に歩を休め額の汗を拭った。


左手にブナの木を眺めながら小休止。

さて、登山道は更に5分足らずで大規模な崩壊地の傍を通るのだが、注意してこのザレ場の上に出ると、西北西方向に吉野川流域の展望を得ることができる。
そこからは、山肌にへばりつくように散在する山村の姿や、三傍示山界隈を中心にして高知徳島愛媛の三県が交わる辺りのやまなみを望むことができる。
特に、双耳峰が二瘤駱駝(ふたこぶらくだ)のコブのように見える野鹿池山や、児啼爺(こなきじじい)伝説発祥の地である根津木越あたりのやまなみが良く見えている。


大規模なザレ場の上から吉野川流域をおそるおそる覗き込む。左上にラクダのコブのような野鹿池山。

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