篠山 2003年4月
アケボノツツジならこの山を抜きにして語れない、そんな山が足摺宇和海国立公園の一画にある篠山である。
私にとって初めての篠山行きは、だからアケボノツツジの花時を逃せなかった。しかも、ツツジやシャクナゲには裏年や表年があり、幸いにも今年は表年だった。
篠山に登るにはいくつかのルートがあるが、宗教登山の盛んだった戦前に片道半日を要した山も、今では四国島内なら無理をすれば日帰りも可能になった。それでも、折角の篠山に駆け足のトレースは勿体ないので、私たちは前泊をして登山口をめざした。
篠山へは県道4号線(宿毛津島線)を利用して松田川を北上する。
坂本ダムを過ぎてしばらく走り、通称篠山スカイライン「南郷(なんごう)林道」に入ると、松田川風景林を見ながらおよそ9kmで登山口のある第1駐車場に着く。
第1駐車場にある登山口から歩き始める。左奥に山頂付近が見えている。
今回の登山口である第1駐車場は、早朝にもかかわらず、車があふれ始めている。
身支度を整えて道標や案内板などが賑やかな登山口から歩き始めると、早くも下山してくる人たちと行き違うので花の咲き具合を聞けば、どの声も「素晴らしいですよ」と教えてくれる。今から期待に胸が膨らむ。登山口から頂上まではおよそ1km。一目散に登らなければならない距離でもないが、期待で少々早足になる。花は逃げないのに不思議なものである。
登山口から数分で左手にログハウス風の休憩所を過ぎると、アカガシ、アセビ、ウラジロガシ、ヤブツバキ、ヒサカキなどの照葉樹を眺めながら、土止めの階段を登る。
登山道の傍らにはギンリョウソウが頭を垂れている。そのうつむき加減の顔を覗き込むと宝石のようなエメラルドグリーンが見えた。
登山道はまもなく、ちょっとした岩場を過ぎて左手に姿形の良い天然ヒノキを見ると「山頂まで700m」の標識に出会う。辺りにはところどころヤブツバキの花が咲いている。
時々足を止めては春を感じながら、快適な登山道を登って行く。
やがて登山道は尾根に乗ると、左上にアケボノツツジの花に染められた篠山の頂が見えてくる。
ごつごつした木の根を遠慮気味に踏みながら登って行くと、やがて「山頂まで600m」の標柱を過ぎて、道の右手に享保年間の墓石や舟形地蔵が見えてきて往路で唯一の水場に着く。
水場でひと休みして地蔵に挨拶をする。
水場には青いタンクが設置されているが、溢れるほど豊かな水は登山道を濡らしている。
水場のそばの岩陰には石仏が安置されていて、苔生した台座からは延享五年(1748年)や明和四年(1767年)の年号がかろうじて読み取れる。穏やかな四角顔の石仏は蓮座に坐して今も水場を守り続けている。
ここで山頂での休憩用にと冷たい水で水筒を満たしてから、再び先をめざして歩き始める。登山道の脇には戯れに積まれた幾つかのケルンが見える。それを横目に階段を登ると、辺りにはひんやりとした空気が漂いはじめ、スギの巨木が立ち並ぶジグザグの急坂になる。
圧倒されるようなスギの古木はもとより、足もとの石段にも、頭上の大岩にも年代を感じさせられる。それもそのはず、このすぐ上にはかつて観世音寺が建っていたそうで、ここは厳粛な境内の一角だったのである。
その篠山観世音寺参籠所(*1)が建っていたという広場に出ると、石垣や捨て置かれた層塔などが苔に覆われて、寺堂の名残が随所に認められる。
(*1)祈願のため信者がこもっていたところ。お籠もり堂ともいう。ここには最近まで篠山神社の社務所兼宿泊所として250人が泊まれるほど大きな建物がたっていたそうである。あの名著「四国山岳」で秦四郎氏が登頂した際に宿泊し風呂で汗を流したというのはここではないかと思われる。
スギの巨木が林立する中、石段を登る。
頂上にある篠山神社とともに神仏混淆の霊山として歴史を刻んだ観世音寺は、その昔、用明天皇の勅願所があって、後に平城天皇の時代の大同元年(806年)に弘法大師により開山されたといわれる。ここは大月町の月崎とともに四国八十八ケ所の番外札所であり、第40番「観自在寺」の「奥の院」として巡礼の旅人は絶えまなく、篠山には遍路屋の堂舎も設けられていたという。
その観世音寺が歴史の表舞台で騒動に揺れたのは、あの有名な篠山国境論争であった。
時は、江戸時代の明暦年間、土佐藩と宇和島藩は、沖の島と篠山の2ケ所で熾烈な国境争いを演じていた。あの野中兼山の力が世に知れ渡った一件である。その時、この観世音寺は争いの火の粉をもろにかぶり、寺ではたびたび両藩の衝突が起こっている。
結果は、沖の島で土佐藩の主張が認められた代わりに、篠山では宇和島藩に有利な裁定がもたらされたのである。そのために、観世音寺の住持は山を下り、土佐藩の領内に宇和島藩の飛び地ができるという何とも苦肉の決着をした経緯がある。
ともかく、その後篠山は両藩の支配となり、篠山権現の神主は土佐から、観世音寺の別当は伊予から出すことになり、お堂やお宮は両国共有のものとして永らく守られてきたのである。しかし、そんな観世音寺も、神仏分離によって明治3年(1870年)には廃寺となり、本尊であった十一面観音像や脇立不動尊像などは正木歓喜光寺権現堂に下ろされたという。ちなみに、この時に山頂の篠山権現は篠山神社と改称したのである。
観世音寺跡の広場からはシカ除けネットを開けて山頂に向かう。
様々な憂いを見た観世音寺も今はなく、境内の片隅でスギの落ち葉に覆われた卵塔場(*2)や、山中に見える天保十四年(1843年)の「一石一字法華経塔(*3)」などに往時を偲ぶしかない。
(*2)僧侶専用の墓であった「無縫塔」という卵形の塔身をもつ「卵塔」が集まった所、つまり歴代住職の墓地のこと。
(*3)経典供養塔のひとつ「納経塔」の類。一字一石塔ともいわれ、小石に経文を一字ずつ書写して埋めて石塔をたてたもの。
ところで、もう一つの登山口である第2駐車場からの道もこの観世音寺跡で合流し、山頂に向かうことになる。篠山に自生する貴重なミヤコザサを食害から守るため、山頂一帯に張り巡らされたシカよけネットを開けて、上に向かう。ここから山頂まではあと300mほどの距離である。
スギ木立の中にところどころ天然ヒノキの混じる林を登ると、やがて右手にかつて天狗堂が建立されていた跡の礎石が見えてきて、山頂まで100mの看板が現れる。
右手前には篠山堂宮のひとつ天狗堂があったという。