登山道が尾根を離れると急坂になり、その後も道なりに山腹を進む。
傘杉堂からおよそ40分ほど来て、登山道は大崩壊(大ザレ)の手前で左に向きを変え山肌を登る。
大崩壊以前の道はそのままトラバースして県境の甚吉森に向かっていたようだが、現在は崩壊地の手前にスズタケもあり、よほど不用心でもない限り崩壊箇所に踏み込むことはないであろう。
ともかく、明瞭な踏み跡を辿ることが肝要である。

崩壊地から左上に見える尾根に出るまでは登山道の両側にスズタケを見ながら案外急な坂を登って行く。
俳句で「竹の秋」といえば春の季語である。
だからという訳ではないのだろうが道の両脇のスズタケは見事に枯れてしまっている。


道の両側に茶色く見えるのは枯れたスズタケ。

尾根に出ると山頂まではもう間もなくである。
右手には甚吉森の稜線も見えている。
鮹の足のように風上に根をもたげた木や、旗の様に風下だけに枝を伸ばした風衝木などを見ながら踏み跡を辿ると、山頂の左側に巻き込んで目的の千本山山頂に到達する。


山頂までもう間もなく。根を起こされたまま鮹のように固まってしまった木など、自然の厳しさをまのあたりにする

辿り着いた千本山山頂はこんもりとした林の中にある。
3等三角点の周りは1パーティーがくつろぐには充分の広さだが周囲は樹木に遮られ展望は良くない。ここにも西斜面には大きな杉の木が見えている。
三角点の脇にはいくつか登頂記念の山名板が立てられており、中には四国百名山踏破中という逞しい記入も見られる。


千本山山頂。北の稜線を眺める浜田さんのわずか下方に切り株の「展望台」がある。

見晴らしの良くない山頂だが、それでも頂の北にはわずかだけ展望の望める箇所があり、索道のワイヤーを掛けるために伐倒された切り株の「展望台」に立つと県境の稜線を眺めることが出来る。
そこには懐かしい甚吉森や最近登った西又山が覗き、両山を結ぶ稜線が魅惑の手招きをして見える。
その甚吉森には千本山山頂から北西に尾根を辿れば到るが、それほど頻繁には踏まれないので登山道は荒れているとも聞いている。


右端のピークが甚吉森の頂。

魚梁瀬は平家落人伝説の里でもある。
寿永4年(1185年)、源平の合戦に敗れた平家の猛将「能登守平教経」は『安芸太郎兄弟を挟んで海に入ると称してひそかに壇ノ浦を逃れて魚梁瀬に来たり(土佐国編年記事略)』とある、つまり落ちのびて阿波の祖谷を経て魚梁瀬に移り住んだのだという。
平教経が阿波の祖谷を後にして土阿県境の甚吉森に辿り着いた時、家来のひとりが魚梁瀬の丸い山を指さし「あの丸い山は私どもの住まいに良いかと存じます」と申し上げたところ、教経はさっと金扇を開き満足そうに「この森は甚(はなは)だ吉なり、されば丸い山の下を住まいと定めよう」と申されたといわれる。これより県境の高峰は「甚吉森」と名付けられたという。
さて、平教経一行は甚吉森を南に下り、この千本山を経て中ノ川に居を構えたが土地が狭隘なこともあって、更に千本山を西に越えて奥西川一ノ谷に居を移したといわれる。
この時、熊野神社に祈って魚梁(やな=川に仕掛けて魚を捕るもの)を流して、そのヤナが掛かったところを住居としたので「魚梁瀬」の地名が起こったという有名な言い伝えが残されているのだが、これについては北川村の妙楽寺に残る古文書(北川村小島紀家文書)によれば、平教経が魚梁瀬に来たという頃より約90年以上も前にすでに柳瀬(やなせ)という地名が存在していたことが明らかになっている。
ともあれここで一族は山麓を段々に開拓し住居を構えて時節到来を夢見ながら隠棲していたが、平教経は再び都の土を踏むことなくこの世を去った。
その亡骸(なきがら)は家来たちによって手厚く葬られ、大石を置いただけの墓にはまわりに竹を植えて目印としていたが、里人がその竹を肥槽のたがにしたので竹はすべて枯れてしまったといわれている。
かつて「御屋敷」と称された屋敷跡には現在「能登守平教経一族屋鋪趾」の記念碑が建っている(備考参照)。


左のなだらかなピークに西又山山頂がある。右奥に見える頂は高ノ河山。

さて、三角点の傍で昼食を終えてから立ち上がり、改めて静寂した森の四方に首をめぐらせてみた。
この荘厳な森に立つ魚梁瀬杉にして三世代を経るほど遠い昔からの平家伝説ではあるが、千本山を抱える魚梁瀬とそこに伝えられた物語には言い知れぬ愛着を覚えた。
それは私が平教経の子孫と同じ姓だからという、単にそれだけのことではなかった。
森は長い時間を掛けて悠久の時を刻みながら歴史を繰り返している。
千本山の森林もおよそ1000年を1サイクルに現在の森の姿ができあがったのである。
同様に人も歴史を繰り返しながら現在があるのだが、しかし私たちは同じ過ちだけは繰り返してはならないと思う。
平家伝説が語り継がれてきたことのひとつには、そんな願いが込められていると私は思うのだった。



*全行程の私たちの所要時間(コースタイム)は以下の通り。
【往路】
登山口<31分>親子杉<13分>写真場<4分>鉢巻おとし<8分>傘杉堂<14分>千本山ロボット雨量計<24分>大崩壊地<15分>千本山山頂
=計109分

【復路】
千本山山頂<38分>傘杉堂<8分>鉢巻おとし<3分>写真場<11分>親子杉<26分>登山口
=計86分


備考

登山道中に水場はありません。


【トガサワラ保護林について】

千本山の南、石仙橋から中川林道に沿って800mほど上流にはトガサワラ保護林(魚梁瀬林木遺伝資源保存林)があります。
トガサワラは日本特産種で、紀伊半島の大台ケ原山系や高知県東部(馬路村や安芸市)にのみ自生する貴重な種で、古い型の遺存植物といわれています。
トガサワラはその近縁種である「米マツ」同様に建築用材としての価値が非常に高く、そのためにこのあたりのトガサワラはかつて択伐されたため個体数は少ないのですが、それでも樹高30m、直径1mを越える大きなものも残っています。
トガサワラ保護林は他に西ノ川山や安田川山があり、保護林以外でも稗己屋山に向かう和田山林道の脇など、魚梁瀬地方の山に登ると時々見かけます。


トガサワラ保護林にあるトガサワラの大径木。


【能登守平教経屋敷跡について】

千本山登山口から林道をわずかばかり下り、分岐を山手に登ると作業道終点やその手前に平坦な土地があります。
ここが「能登守平教経」一族の屋敷跡といわれ、林の中には「元暦元年行宮御隠居伝説、能登守平教経一族之御屋鋪趾」(昭和10年3月15日魚梁瀬有志西川従業員一同建之)と刻まれた自然石の碑が建てられています。ここには最近まで魚梁瀬営林署の造林小屋や苗圃がありました。


能登守平教経屋敷跡の石碑、この奥に広い屋敷跡が見えている。


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