城戸木森 2004年4月
できることならもう一足早く逢っておきたかった。満身創痍で立ち続ける巨木にその思いはひとしおだった。
しかし、日本一の座を譲り渡したとはいえ、その姿は今も威厳に満ちていた。
それは幾千の敵に向かうたった一人の野武士のようで、痩せた田畑を守り続ける頑なな農夫のようでもあった。
枝を折られ幹をむしり取られても白骨化しながら巨木は生きながらえていた。「折合の大ヒノキ」は、やはりただ者ではなかった。
一度登りたい山と一目会いたい樹とを訪ねるコースは、長い間私の胸に温めていたプランだった。
充分すぎるほどの充電期間を経てから、3人揃って休暇をとると、登山口がある林道のゲートを開けるために窪川町にある森林管理署を訪れた。
窪川事務所でゲートの鍵を借りると、折合林道をめざして井細川沿いに遡る。狭くて蛇行した車道には馴れっこでも、川口から登山口までは13kmあまりもある。途中、背筋を伸ばすついでに桧生原(ひさはら)にあるシイの巨木に立ち寄った。
地元で「大シイの木」と呼ばれるスダジイの巨木は、その株立ちといい枝振りといい、この樹種では紛れもない県下一の横綱である。樹高23m、胸高周囲6.5m、株もと周り10.6m、樹齢500年(*1)は、数字の上でも一、二を争うが、何よりそのドーム型の見事な枝振りは他を圧倒している。
(*1)平成12年高知県森林局発行「土佐の名木・古木」による。なお、1991年環境庁発行「日本の巨樹・巨木林」では宿毛市沖ノ島の「山伏のスダジイ」と並んで樹種別高知県第1位に記載されている。そんな大木から落ちるシイの実は20リットル以上もあったといわれる(昭和51年毎日新聞社発行「四国の名木ものがたり」)。
民家の脇で見事な枝振りを見せる「桧生原の大シイ」
もともとこの木は山の上にあったものが、崩えでこの地に運ばれてから大きくなったものだといわれ、本当の株もとは地面の中にあるというのだから、実際の大きさは想像もつかない。まったく、たいしたものだなぁ、と、梢を見上げては開いた口がふさがらない私たちだったが、日本一だったヒノキを見に行く前段にはなかなか相応しい巨木だった。
再び車を走らせ、舗装が終わると折合林道に入る。ゲートを通過し、土埃をあげながら道標に導かれてまもなく登山口に着く。駐車スペースが無くて苦労するが、どうにか路肩に車を寄せると身支度を整えた。
林道脇の登山口から登り始める。
「大ヒノキ登り口、所要時間1時間30分」と記された道標が立つ登山口から、擁壁を伝って山中に入るといきなりの急坂が始まる。地図であたった通り、なだらかな尾根道になるまで鈍角な支尾根を辿る坂道はしばらく続く。
確実に標高を稼ぎながら照葉樹林や植林を登ってゆくと、傍らにはひと抱えもふた抱えもあるヒノキの切り株がある。この辺りの国有林は昭和4年頃に択伐されたそうだが、これはその時の名残であろうか。
大ヒノキをめざして国有林を登ってゆく。
小一時間も登ってくると、登山道はようやくなだらかな尾根道になる。
ふと見ると、足もとに木製の指導標がある。なるほど、帰路にうっかり直進してしまいそうな箇所に親切に設置してくれている。道標のそばで額の汗をぬぐいながら最初の休憩をとることにした。
それにしてもありきたりの林もこの先に待っていてくれるものがあると随分気分が違う。それが素晴らしい展望だったり、可憐な草花や孤高の巨木だったりすればなおさらである。ここでひと息つけば、次の休憩は巨木のそばでたっぷりと休めるはずである。だから、短い小休止の後、なだらかになった山道を少し足を速めながら歩き出した。
道標に出会うと、山道はなだらかになる。
両手を広げて歩けるほどに広い尾根道は、照葉樹林の中を延びている。足もとにそんな木々の厚手の落ち葉を踏みながら、小さなコブを越えて少し下る頃、右奥に城戸木森方向の尾根筋が覗き始めた。しかし、町境の尾根筋はまだまだ遠い。樹木の切れ目から右方向には井細川源頭部の稜線も見えている。
やがて、林班地図にある歩道を十字に横切ると、アカガシやウラジロガシの林を通り、急坂の直登が始まる。
カゴノキやヒサカキ、ヤブツバキやヒノキなどの繁る林を登ると少し傾斜は緩くなるが、すぐに再びきつい坂道が待っている。しかし、それも5分ほど辛抱すれば傾斜の緩くなる頃、正面に「折合大ヒノキ」の道標が見えてくる。
傍らには窪川町立川口小学校の子供たちが大ヒノキを詠んだ楽しい俳句が残されている。ここを右に逸れて脇道に入るとすぐに大ヒノキがその全容を現した。
前方に「折合大ヒノキ」の道標が見えてくる。ここを右に折れるとすぐに巨木が姿を現す。
胴回り9.9m、樹高30m、樹齢800年といわれる大ヒノキは、目の当たりにすると数字以上の圧倒的な迫力で見るものに迫ってくる。
しかしその巨大さへの驚きは、やがて無惨な姿への哀れみに変わってゆく。
白骨化して立ち続ける巨木の、その根上がりしたような複雑な幹に樹皮はわずかにしか認められず、所々に見える緑は苔や宿り木のものである。この巨木のどこからも、雄々しい生命力は感じられない。それは裏に回るとなおさらである。そこには一昨年の嵐で倒れたという大枝が横たわり、引き裂かれた幹が痛々しくあらわとなっている。倒れた枝その一本だけでも充分に巨大なものだけに残念でならない。過去にも昭和38年の9号台風で3本の大枝を失っているが、今回の損傷は日本一の座を下りるきっかけとなってしまった。
とはいえ、天下の大ヒノキだっただけに、その存在感は強烈である。満身創痍で立ち続ける古木としばらく対峙するうちに、無惨な姿への哀れみはやがて尊敬に変わってきた。朽ちゆきながらもこの巨木にはいまだ凄まじい存在感が充ち満ちている。それは生への激しい執念ともいうべきものである。この古木には、野根山街道で旅人を見守る宿屋杉のような第2の生き方は巡りこないだろう。しかし、だからこそ大ヒノキは私たちの心の中でいつまでも生き続けるに違いない。
ところで、あまり知られてはいないがこの大木には2つの斧の跡があるという。斧の傷は古く、窪川営林署が昭和4年に伐採作業に入った時すでにその跡は認められたという。天下の巨木に斧を振りあげたのはどこの誰だったのだろうか。何の目的があって、そしてなぜひと振りで止めてしまったのだろうか。そんな物語も今は知るよしもない。
枝をむしり取られ悲壮感漂う大ヒノキ(左)。右はまだ元気だった頃の雄姿(写真集「土佐の名木」高知県発行より転載)。