あれこれとしばらく物思いに耽っていたが、ようやく重い腰を上げて、大ヒノキのそばを去ることにした。
看板まで引き返すと、大ヒノキを振り返りながら尾根道を更に登り始める。日本一だった巨木の後に登る山はやはり"一等"三角点がふさわしい。めざすのは2kmほど先にある、城戸木森である。しかし、尾根道がどんな状態なのかは森林管理署で尋ねてみてもはっきりと分からなかった。ここから先は運を天にまかせるしかないのだが、日頃の行いに自信のある私たちには何のためらいもなかった。気力が充実している時はヤブ道でさえ自ずと開けるものである。
しっかりした山道を10分足らずで町境の尾根に出ると、尾根沿いにも願い通りの明確な道が現れた。右にとって照葉樹林の中の真新しい刈り払い道を辿ると、脇には真っ赤なヤブツバキの花が見える。ところどころ刈り払いのされていない区間もあるがブッシュはさほどでもない。道筋はいたって明確で、高低差も少なく、歩行スピードを上げながらモミやツガなどの混じる針広混成林を進む。
真新しい刈り払い道が延びる町境の尾根を行く。
やがて尾根道は少しだけ下り坂にかかると、正面に888mの独標点ピークが迫ってくる。このピークを私たちはその標高から「ぞろ目山」と名付た。ほぼ尾根沿いに坂道を登り、ぞろ目山のピークを越えると、なだらかで快適な尾根道になる。大きなアカガシを見上げながら歩いていると、ほどなく尾根の左手に伐採地が見えてきた。予想していなかった眺望の展開に「おおっ」と、声をあげながら伐採地の上部に歩み寄ると、そこからは大正町側の雄大な展望が一挙に開けた。正面になつかしい笹平山を認めると、辺りの山々の位置関係がおぼろげながら分かってくる。土予県境に横たわるのはこれもなつかしい雨包山や高研山に違いない。ほぼ北には五段城から源氏ケ駄馬への四国カルストがよく見えている。思わぬご褒美に、山座同定を楽しみながらたっぷり休憩をとってみた。
ここから山頂はうまく確認できないが、よく見るとこの先にも同様の伐採地がふたつほど見えている。尾根道に戻り、山頂に向かって歩くと、そんな伐採地に立ち寄るたびに、少しずつ変化する景色を堪能する。2度目の伐採地では地蔵山や笹平山など土予県境の山々をもう一度眺め、3度目の伐採地では堂ケ森など幡多地方の個性豊かな山々を遠望した。
第1伐採地と第3伐採地からの眺め。四国カルストや高研山、地蔵山など土予県境のやまなみをはじめ、堂ケ森など県西部幡多地方の個性豊かな山々が認められる。
素晴らしい展望を満喫したら、あとは山頂を踏むだけである。
ヒメシャラの剥き出しの肌からにょきりと突きだした若葉に清々しい初夏の息吹を感じながら、相変わらず植林と広葉樹との植生境を辿る。やがて右手に山腹を巻く脇道をやり過ごすと、最後の登り坂が始まる。尾根を直登すると、息の切れるまもなく一等三角点の大きな標石が見えてきて山頂に着く。
城戸木森の山頂は半径3mほどが円形に刈り払われ、周囲は、アカガシやヒノキ、ヒサカキ、ヒメシャラ、シロモジやアセビなどに囲まれている。したがっておおかたの一等三角点がそれなりの眺望に恵まれているのに、ここからの展望は皆無である。しかし、伐採地からの眺めや山懐で立ち続ける大ヒノキなどは他を圧倒して余りある。だから展望は皆無でも、この頂に立って一等三角点の立派な標石を瞼に焼きつける、それだけで私たちには充分だった。
幾つかある登頂コースの中からこのルートを歩いた満足感と充実感に浸りながら、この日の最終目的地で昼食を広げた。
一等三角点の標石が埋まる城戸木森の山頂。
ところで、下山はなぜか三人して無口だった。思えば大ヒノキに再び立ち寄ることもなく、静かに山を下りたことだった。
それは楽しみだった山に登ったという達成感より、いざ登ってしまうと虚脱感のほうが大きくなったからかも知れない。そして何百年もの間、自然の移ろいを見続けてきた大ヒノキとの対面は、やがて朽ちていく自然の厳しさをまざまざと見せつけられた感がある。
しかし、折れた枝や裂かれて横たわる幹からは、やがてそれを肥やしにして次世代の大ヒノキが育ってゆくに違いない。気の遠くなるような長い年月を経ながらも、自然という大河は弛まない。
大ヒノキはそんな自然の主であり、大地の大いなる父である。野武士のようで頑なな農夫のような、そしてそれは老いゆく父の背中のようでもあった。いつまでも追い続ける宿命の壁のような、越えられない高いハードルのような。淋しいような厳しいような時に優しいような背中だった。
山を下りてから数日後のことだった。娘が突然、結婚したいと私に告げた。
いつまでもハードルを越えられない私とはうらはらに、娘はいつの間にか私を越えようとしていた。
登山口のある折合林道へは窪川町川口集落で国道と別れて県道に入る。その川口地区にある「河内神社」には、窪川町指定の天然記念物である「河内神社の大杉(鳥居大杉)」がある。樹高30m、根元周り4.5m、推定樹齢400年の古木は、この山行きの帰り道に、ぜひ訪れたいもうひとつの名木である。
*私たちのコースタイムは以下の通り。
【往路】
登山口<23分>支尾根の道標<33分>折合の大ヒノキ<9分>町境の尾根<22分>ぞろ目山(888m独標点)<22分>城戸木森山頂
=109分
【帰路】
山頂<20分>ぞろ目山(888m独標点)<17分>町境の尾根<4分>折合の大ヒノキ<16分>支尾根の道標<14分>登山口
=71分
登山ガイド
【登山口】
窪川町中心部から江川崎に向かい、国道381号線に乗り入れると、しばらくして窪川町川口で国道を右折し、県道328号線(小味野々川口線)に乗り入れます。井細川に沿って12kmほど北上すると、右手に折合集落最奥の民家が見えてきて、折合林道に入ります。ゲートを通過し、サルヤグチ橋を渡ると、国道から約13kmで林道の分岐に至ります。この分岐は左にとってヘアピンカーブを折りかえします。ここには「折合大ヒノキへ」の道標があります。分岐から登山口までは600mほどです。山手に文中のような看板が現れますので容易に分かるでしょう。登山口に駐車場はありませんが、林業作業車の邪魔にならないように注意して路肩に駐車します。
今回の私たちはその他の調査のために四万十森林管理署窪川事務所で林道ゲートの鍵を借りましたが、休日などでゲートが閉じられている場合は手前に駐車して歩くと良いでしょう。ゲートから登山口までは1.5km、徒歩約40分を加算してください。
また、文中で訪ねた「桧生原の大シイ」は、県道の左手にあります。
なお、城戸木森への登山コースはいくつかあり、大正町中津川林道から尾根を辿るコースが約1時間ほどと最短です。その他、折合林道の最初の分岐を直進して更に井細川を遡り、車道終点近くから登るコースもあります。
【コース案内】
大ヒノキまでは道標が整備されており迷うことはないと思います。
大ヒノキから町境の尾根に出ると、ほぼ忠実に町境を辿ります。若干のアップダウンやわずかにブッシュもありますが、戸惑うような分岐もなく、ゆっくり歩いても1時間もあれば山頂に至るでしょう。帰路は往路を引き返します。
備考
登山道に水場はありません。
林道ゲートの鍵を借りる場合は、事前に連絡のうえ、借用した鍵は必ず業務時間内に返却するようにお願いします。また、万一悪天候等で伺えない場合は早めに中止の連絡を行いましょう。心ない登山者の行為で、将来にわたり窮屈な思いをすることの無い様に、重ねてお願いします。
折合の大ヒノキが日本一の座を下りた現在、日本一と呼ばれているのは宮崎県椎葉村にある国の天然記念物「大久保の大ヒノキ(幹周り9.3m、樹高32m、推定樹齢800年)」などです。