帰路は石段を下ると、十字路を左(東)にとって大屋敷に下ることにする。一面の植林の中をなだらかにトラバースする山道はところどころザレていたり倒木も散乱してやや荒れ気味だが、踏み跡は明瞭である。
少し行くと植林の切れ目で雑木林のブッシュに入るが、ここは植林の縁を辿ると歩きやすい。まもなく下方で横道と合流し、更に山肌を巻いてゆく。振り返ると植林の隙間からは往路に辿った尾根筋が覗いている。
植林を抜けると、足下に蕾のふくらみかけたミツマタを眺めながら、雑木林を巻いて支尾根を越える。支尾根の右手では耕作放棄された土地を竹林が侵略している。支尾根を乗り越えて竹藪をどんどん下り、上部に照葉樹林を見ながら植林の上縁をトラバースしてゆく。
竹藪を下り、植林の上縁を回り込むと棚田に向けて下り始める。
やがて左手に登る脇道を通過する辺りから見事な石垣の築かれた棚田跡が始まる。
耕作放棄されて植林されたかつての棚田を下って行くと、その見事な石垣に驚嘆の声があがる。大小の石の組み合わせは美しく、山肌を埋め尽くす石垣の景観に圧倒される。白米(しらよね)や遊子(ゆす)などにはとうてい及ばないにしても、これはこれで圧巻である。たびたび立ち止まっては石垣の美しさに見とれながら、その棚田の命だった小さな流れを追いかけて山道を下ってゆく。
石垣の美しい棚田の群れは、ひっそりと山中に隠されていた。
あちらこちらからちょろちょろと湧き出る細い流れが、やがてまとまった流れになる頃、最近まで出作りされていたらしい水田まで降りてくれば里はほど近い。炊事跡に釜などが散乱し、いたるところに人の臭いが濃くなると、谷と別れて山肌をトラバースしながら山道を下ってゆく。
やがて道の右手に小さな石段が見えてくると、その上に素朴な供養塔を認めた。急な石段を登り、その奥に祀られてある不動明王などに手を合わせると再び山道を下る。赤く熟れたナンテンの向こうに廃屋が見えてくると、ほどなく車道に出た。あとは車道をのんびり歩いて駐車場まで引き返すのだが、下山口から車道を少しだけ奥に向かって足を延ばせば、小さな水場がある。導水管(パイプ)からは湧き水がほとばしり、傍らにはコップも備えられてある。ここで渇いた喉を潤せば、こんな里山歩きにもかけがえのない一服の清涼剤となる。
右手に供養塔が見えてくると下山口は近い。
ところで、駐車場まで帰り着いた私たちだが、その足でどうしても立ち寄らなければならない場所がひとつだけ残っていた。
それは久重や宇留志の産土神であり、高岡郡仁井田郷から勧請したという「仁井田神社」である。そこにはかつて山上にあった「八面王神社」が合祀されているのである。
駐車場からもう一度登山口へ向かう途中で、貯水タンクの100mほど手前から谷川に下る山道へと入る。下方に小川が近づくと、ほとりに神社の屋根が見えてくる。境内には木や石の鳥居が立ち、愛嬌のある大小の狛犬が脇を固めている。仁井田神社の拝殿には立派な合戦絵馬があり、長州大工の作と思しき見事な造りの本殿には四隅で天の邪鬼がしゃがみこんでいる。そんな境内の片隅に例の八面王神社は祭られている。そして小さな社の前には、山上から下ろされたものだろうか「奉献八面王神社」の文字までマメヅタに覆われた手水鉢がそっと置かれていた。
小川べりで厳かに立つ仁井田神社。
ところで、八面王の墓には木地師の長い巻物(御墨付き(*2))が収め祀られてあるといわれる。木地師にとって巻物の取り扱いは厳重であり、木地師が亡くなると一代限りの巻物は懇ろに葬られたという。その大切な巻物を荒らされないために恐ろしく近寄りがたい「怪物」が必要となったのであろう、ここに「八面王」の伝説が生まれたとも考えられる。
一方、陰陽道いざなぎ流祈祷に用いられる御幣にも八面王や六面王が伝えられている。伝説ではいざなぎ流の秘術で山をおこす(荒らす)と杉熊山から八面王が現れたという。ただしそれもこれも物部村という狭い地域でのみ語り伝えられてきた八面王伝説が、この地で飛び地的に信仰されてきたことを語るにはまだまだ謎が多い。木地師といざなぎ流との関係についても詳しくは分からないが、しかしここで注目すべきは八面王が「現れる」場面(シーン)である。どれも山を荒らした時であることに民俗神「山の神」信仰との繋がりを強く感じるのである。
(*2)木製の椀などを作ることを生業として山中を移動する集団を木地師や木地屋とよぶ。彼らは木地の原料を伐採するため全国の山に自由に出入りできる免許状などの御墨付きを所持していた。
境内の片隅に祀られてある八面王神社。
山爺や山姥などを祭神として受け入れてきた土佐の風土が、ここに八面王を祭神とする山の神信仰をもたらしたのではないだろうか。こうして山上に祀られ、時に高神さまとも崇められて近代まで厳格に女人禁制を貫いてきたことも容易に頷けよう。
事実伝承によれば八面王は山犬や山爺と同様に「山の神」の眷属だったといわれている。山の神の所有物である木々や動物(獲物)は山村の人々にとって生きる糧であり、それらが得られないことは当然ながら死活問題だった。山の神の許しを得ずに山を荒らして神の機嫌を損ねることは最も忌むべきことであった。自然崇拝的に発生した民俗神「山の神」は天狗や山姥やあるいは八面王に姿を変えて人々の「心の内」に度々現れた。それは自然の中で営む人間のあり方を自責するかのようでもあった。
それは今も同じである。生きるために山に分け入った時代から、レクレーションとして山に入る時代に変わろうとしている現代でさえそれは問われ続けている。登山者が豊かな人間性への回帰を求めて山に入ることは至極当然の行為である。しかし、時として私たちは傲慢な態度で山に接してはいないだろうか。今一度この胸に問い直さずにはいられない。
万一、自然に対する畏敬の念を忘れ、利己心ばかりで野山を蹂躙したならば、八面王は私たちの前に再びその姿を現すかもしれない。
その時は、得も言われぬほど恐ろしい形相に違いない。
*私たちのコースタイムは以下の通り。
【全行程】
駐車場(土捨場広場)<7分>登山口<2分>地蔵堂跡<31分>石段下十字路<5分>八面王神社跡<3分>三角点<5分>石段下十字路<34分>供養塔(不動明王)<2分>下山口<8分>駐車場<6分>仁井田神社<8分>駐車場
=111分
登山ガイド
【登山口】
芸西村役場から北に走り、県道216号線(羽尾琴浜線)で久重の集落に向かいます。白木山と久重との分岐(道標有り)から右に入り、少し走ると左手に久重の集落があり、少し上には久重小学校跡があります。更に車道を行くと、急な右カーブで左手に見事な石垣の屋敷跡が現れます。ここには「タキミシダ」があるので見学に立ち寄ると良いでしょう。登山口へは更に車道を行きます。やがて道路が尾根の切り通しを越える辺りの左手に貯水タンク(水槽)が見えてきます。このタンクの手前で擁壁を山手に上がる道が登山口です。ここまで、白木山と久重との分岐から1kmあまりです。
なお、付近には駐車スペースがありませんので、登山口から更に未舗装の車道を進み、この当時、林道延伸工事の土場(土捨て場)になった広場まで行き、邪魔にならない所を選んで駐車します。
【コース案内】
登山口からタンクの上部に向かうように山道に入るとすぐにお堂の跡に出ます。ここには手水鉢や地蔵が残されています。地蔵の奥から明確な山道を登ると以降は支尾根沿いを辿ります。小さなアップダウンを繰り返しやがて十字路を直進すると5分ほどで石段が現れます。石段の手前にも十字路があります。帰路にはこの石段の手前の十字路を右手(東)にとって下ることになります。山頂へは石段を登ります。石段の上から左に行くと八面王神社跡で、右に行くと三角点です。
帰路は石段を下り十字路を左折して山腹をトラバースしながら大屋敷に向けて下ります。いくつかの分岐は下る方を選びながら、支尾根を越えて谷沿いに下る辺りから見事な石垣の棚田跡が現れます。やがて山道は谷川を離れ、右手に不動明王の祀られた供養塔が見えてくると車道はすぐそこです。車道に下り立つと駐車したところまで車道を歩いて引き返します。
なお、紀行文の構成上、八面王神社が合祀されている仁井田神社は帰路に訪ねていますが、コースの順路から行けば、登山口から歩き始める前に立ち寄る方が良いでしょう。仁井田神社に立ち寄る場合は、駐車場から貯水タンクに向かい、タンクの100mほど手前の路肩側で谷川に向けて下る山道に入ります。植林や竹林を歩いて3分ほどで神社に至ります。
なお、その他のコースとして、白木山から登る場合は、久重との分岐から700mほど車道を進み、右手の谷の左岸を遡上して途中で谷を右岸に渡ると尾根の最低コルあたりをめざして登り、あとは芸西村と夜須町境の尾根沿いに登ると、山頂直下の石段のもとに行くことができます。
また、その登山口から更に車道を300mほど進み、橋の手前で右手に入り、2軒ある民家の間から登ることもできます。何れも尾根に出てからのコースは同じです。また、駐車した土捨て場の山手にある谷から墓地を抜けて尾根を辿るコースもありますが、ブッシュがひどく現在は使われていません。
備考
登山道に水場はありませんが、下山口には水場があります。
仁井田神社にはたくさんの絵馬がありますが、中でも幕末の絵師「広瀬洞意(絵金)」の描いた「川中島の合戦」の絵馬は絵金の板絵でも最大級のものとして有名です。ただし、現在は芸西村文化資料室に寄託収蔵されています。
山名については、三角点名であり小字でもある「滝ノ平」を使用しました。一般に滝ノ平の山頂は八面王神社跡を指すようです。