土岐山  2003年9月

暑さ寒さも彼岸まで。秋分を過ぎると朝夕めっきりと涼しくなった。
だから高い山に一足早い秋の訪れを探しにゆこうと計画していたのだが、あいにく秋雨前線が活発でお昼には雨が落ちだすという。そこで予定していた高山は止めにして、以前から気になっていた里山に出かけることにした。
それが日高村本郷に聳える独立峰「土岐山」だった。

土岐山の山頂には中世に「土岐城(*1)」という城が築かれていて、現在でも僅かながら遺構が認められるという。
今は「つわものどもが夢の跡」、夏草の茂る山城に、三人の侍が攻めあがろうというのである。

村人に教えてもらった登山口は、宇井の集落にある。
登山口には立派な鳥居が立っているが、これは山頂にある城八幡宮(じょうはちまんぐう)のもので、辿る山道はその参道でもある。
脚絆の代わりにスパッツを取り付けた浪人3名は、柄にもなく颯爽と歩き始めた。

(*1)土岐城=「とぎのじょう」あるいは「とぎじょう」という。土佐州郡志には土¥驍ニ記されている。宮地森城著「土佐國古城略史」では日下西城とある。


写真中央に登山口の鳥居が見える。画面の左手前から登り始める。

車道から山側の擁壁に登ると、鳥居をくぐる。
入り口にはカヤが茂り、夏草に隠れて、ゲンノショウコやオトコエシの花がこっそりと咲いている。
とりつきからのブッシュに先が思いやられると思っていたが、鳥居を抜けて林に入ると藪は薄らいだ。その代わりに、山頂まで延々の直登が待っていた。

ヒノキが植林された急斜面を真っ直ぐに登ってゆく。
少しなだらかになったかと胸を撫で下ろす暇もなく、直登は続く。
シダの切れ目で咲くヤマジノホトトギスも、とっくに花の終わったサカワサイシンも、まるで意に介さず、ひたすら滑りやすい山道をさながら獣のように這い上がる。
その傾斜はさすが自然の要害だけある。
戦国時代の元亀2年(1571年)に長宗我部元親が土岐城を攻めたときは、この山城が陥るに半年を費やしたといわれ、現在の竜石神社竜ノ口(*2)を畢竜天(ひつりゅうてん)の吉兆として戦勝祈願し、ようやくにして攻略したという言い伝えが残されている。

(*2)竜石神社は日高村竜石の国道沿いにあり、日高村史跡文化財に指定されている。ここには「竜ノ口」と呼ばれる、竜の頭が突きだしたような石があり、これを長宗我部元親は畢竜天の吉兆と見立てて戦意を高揚させ、土岐城の攻略にあたったといわれる。現在ここにはその折に元親が奉納したという石の祠が言い伝えられてある。


登山道は安易な蛇行を許さず、ひたすら直登が続く。

竹林や植林を経て、支尾根に乗ると、ようやく少しなだらかになった。
足もとにツユクサの紫と、ヒメヤブランの未熟な実を眺めながら、少しだけ山腹をトラバースすると、またも急坂が始まる。
息を切らせてジグザグに登ると、辺りには竪堀の遺構らしきものが見あたる。
城から石でも落とされたならひとたまりもないような山肌を喘ぎながら登りきると、ようやく尾根に出た。


尾根に出たとたん、古城跡はニノ丸の跡に立つ。

ここは二の丸の跡だろうか、平坦な周囲には土累が見える。まっすぐに南へ越すと宮谷に下る道があり、左手にとると三の丸や馬場から中学校に下りる尾根道がある。
ここで右に折れて一段高いところに上がると本丸跡に神社がひっそりかんと立っている。
こうしてみると、あっけない登頂だった。
ここには南と西に土累の跡が認められ、八幡宮の鳥居跡や舟形の手水石もある。手水石には大滝山の麓にある「九頭村」の集落名が見て取れる。
社の真後ろの小高いところに測量ポールがあり、地籍調査の標柱がある。ここにはひとつだけ登頂記念の山名板があった。もちろん周りは植林に囲まれ展望は皆無である。


本丸跡に立つ城八幡宮の社。左手には土累の跡が認められる。

ところで、土岐城は戦国時代に黒岩片岡氏の築城ともいわれるが定かではない。
土岐山の聳える日下(くさか)には、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて日下川に沿って拓けた久佐賀別符(くさかべっぷ)があったが、その一時期(嘉暦年間頃)、別府彦九朗が土岐城の城主であったという伝承もある。
初めは南朝方だった日下領内も、暦応3年の大高坂城落城を境に南朝方の武将は次々に没落し、南北朝期は三宮氏が北朝方の武将として活躍している。
その後、室町時代には蓮池(土佐市)の大平氏の勢力下に入り、やがて戦国時代には中村の公家大名一条氏が進出、その武将中納言白河兼親、富親が土岐城の城主になったと伝えられている。
そうして、先に述べた長宗我部氏の侵攻により、三宮氏の領内となり、後に葛懸城主だった「三宮越前守親虎」の弟「如光」が分家して柏井氏を興し、三宮越後守如光を名乗って土岐城主となっている。
これが現在の柏井氏の祖であり、後に柏井氏は天正14年(1586年)12月の豊後戸次川の合戦に従い、還って牟岐大島に閑居したとも、合戦で戦死しその墓は九州の地にあるともいわれるが、それもこれも今となっては確かめるすべもない(*3)
ただ、多くの城が中世の混乱の中で盛衰を繰り返した様に土岐城とて例外ではなく、運命の津波に小舟のごとく弄ばれたことだけは紛れもない事実であろう。

(*3)柏井氏の子孫という方の話では、柏井兵部助という者が土岐城の城主で戸次川の合戦に参加したという。しかし豊後の役の戦死者を記した「於豊州信親公忠死御供之衆」の鑑板には柏井氏の名は見当たらない。ただし、三宮中間七人の記述はある。また、前述の「土佐國古城略史」によれば、豊後の役に出向いたのは柏井左衛門國実といい、服役後伏見にあって、後に阿波の牟岐大島に閑居したという記述がある。


鳥居の元まで下りきる。中央は宇井の集落。

さて、かつてを偲ぶのにも飽きた私たちは、本丸跡へ旗印の代わりに足跡だけを残して、斜面を一気に駆け下りると、向かいにある小山(石鎚遙拝所)に登って土岐山を振り返ってみた。
こうしてみると、なるほど鳥居から山頂まで土岐山の北斜面は壁のように切り立っているのがよく分かる。
今日の私たちのように、この斜面をよじ登った戦国人はどんな野望を抱いていたのだろうか。
思えば、土岐山の頂でいっとき下界を眺め、束の間の栄華に酔いしれた戦国の武将たちも、結局は、あがきながら時代のうねりに飲み込まれていったのである。そうしてみれば、いつの世もほんとうに強かったのは、麓を稲穂で潤した農民達だったのかもしれない。
地に根を張る巨木のようにしぶとく生き抜いてきた人々を今も土岐山はこうして見下ろし続けているのである。
だから無益な争いに歴史はちゃんと答えを出しているのに、それでも私には、人類がまた戦に向かっているように思えてしようがない。
やがて予報どおりに落ちてきた雨粒は、そんな愚かな私たちを戒めるように冷たかった。


「遙拝さま(石鎚遙拝所)」から土岐山と対峙する。左下が登山口、正面ピークが山頂である。




私たちのコースタイムは以下の通り。

【往路】
登山口(鳥居)<25分>山頂(神社)
=計25分

【往路】
山頂(神社)<19分>登山口(鳥居)
=計19分


登山ガイド

【登山口】
高知市方面からだと、国道33号線で高岡郡日高村に入り、JR岡花駅の手前で左折して宇井の集落に向かいます。
集落中央にある宇井農村公園を回り込むと右折して、小鹿児に越える車道を行くとすぐ左手に鳥居の立つ登山口があります。マイカーは通行の邪魔にならないところを選んで駐車しますが、地区の人に一声かけておくと良いでしょう。
なお、文中でも触れたように、宮谷から登る道もありますが、現在その道は消滅しかけています。特に夏はマムシが多いそうですから注意が必要です。また、日高中学校の裏から「蛇ケ平(へびがひら)3等三角点」を経て尾根を辿るコースもありますが、宇井からのコースが昔ながらの参道で、年に一度、秋の祭礼の頃には参道が整備されます。

【コース案内】
登山口が見つかれば、一本道ですから迷うことはないでしょう。尾根に出て右折すると、すぐに神社のある土岐山山頂です。


備考

登山道に水場はありません。

登山口を挟んで、土岐山の北にある小山(通称「遙拝さま」)には石鎚神社(遙拝所)があります。土岐山登山口から車道を歩き、畑の縁を通って山道に入れば石鎚さんの小山に至ります。帰途は尾根沿いに墓地を抜けると宇井の集落に下ることができます。所要時間は一周半時間ほどです。

土岐山には中世の古城跡があるほか、土器やヤジリが出土したこともあるそうで、興味深いところです。
出土品のうち「古備前焼すり鉢」「土師製土釜」「燈明皿」などは高知県立歴史民俗資料館にあるそうです。
その他、土岐山の出土品について詳しいことをご存知の方は、ご連絡をお願い致します。


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