案内通りに石段が現れた。しかし、そこにはひどく荒れた石段や夏草に囲まれた鳥居が見えている。
崩れかけた石段を登り鳥居の前に立つと「丸に石」印の手水鉢がその横に認められた。手前には石段寄進の碑や石燈籠が立っていて、霧島大神宮の小さな祠も見える。
そしてここにも修験の行場があった。鳥居の向こうにある大岩には行場でよく目にする「鉄鎖」が垂らされていた。

近世中期以降の土佐における石鎚信仰は中央から西が盛んだったといわれるが、ここ宇佐においても石鎚講や修験はかなり広範に信仰されていたものだろうか。
少し話が逸れるが、茶臼山の麓には役行者(えんのぎょうじゃ)が祀られた行者堂がある。そこには岩屋の暗闇に前鬼後鬼(ぜんきごき)を従えた役行者がお馴染みの姿で坐している。もちろん石鎚修験の祖は寂仙ではあるが、「諸山縁起」にみえるように石鎚の芳元が役行者の門弟とあれば石鎚信仰と熊野修験は古くから密接だったとも考えられよう。また、近くの若一王子宮には修験に縁(ゆかり)の磨崖仏が存在したのではないかと思われる節もあるが、いずれにしろ茶臼山との関わりについて詳しいことは分からない。


石鎚神社の鳥居や燈籠。右手の岩には鎖が垂らされている。

さて、鳥居の奥に見える鎖をよじ登れば、茶臼山の山頂なのだが、修行の足りない私たちは無理を避けて迂回することにした。
鳥居の前を左に折れて進むと、すぐにあの親切な指導標が見えてくる。道標に従い右に登れば頂とある。しかし、その前に直進して展望広場に向かった。道標からほんのすぐの広場に出ると、まさしく「絶景」だった。

辺りは見事に刈り払われ、眼前に宇佐湾の大展望が広がっていた。

穏やかな海辺を取り囲むように連なる宇佐の町並みに小学校や漁港が見える。湾内には忙しなくボートが行き交い、沖では大型船がゆっくりと航行し、その間をカモメが揺れている。
水平線までくっきりと見渡せる両端には、南東に室戸岬が、南西には足摺岬が見えている。
それはまるで魚眼レンズで見るような風景だった。海も空も樹々も風も渦巻きながら私の中から湧き出るような不思議な感覚だった。


展望広場から宇佐湾を俯瞰する。

そして、ここにはやっぱり思惑通りの「風」が吹いていた。
展望所の背後に残された木々が木陰を作り、正面からは心地よい潮風が吹きつけている。浜風に当たりながら眺めを楽しむわずかの間に汗ばんだ身体の火照りはみるみるひいた。

すっかり落ち着くと、山頂を踏んでくることにした。
指導標まで引き返すと分岐から山頂へ向かう。
斜面には鎖場ならぬロープ場があるが、太いロープを伝ってぐいぐいよじ登る。山頂の手前で、はびこる羊歯(シダ)に一瞬躊躇(ちゅうちょ)するが、思い切ってこぐと瞬く山頂に出た。


鎖場ならぬロープ場をよじ登る。

山頂はヤマモモやヒノキ、ハゼなどの木々に囲まれて見晴らしは良くない。それほど広くない頂には保護石に囲まれて真新しい四等三角点の標石が埋まり、傍らには鉄製の小祠がある。祠は石鎚講のそれで、中には蔵王権現や不動明王など数体の仏像が祀られている。
祠から少し離れた所には「南無石鎚秘蔵大権現」と刻まれた立派な石塔が建てられており、その台座には信仰を支えたたくさんの名が刻まれてある。
ここも石鎚の分霊を勧請した神社であり、遙拝所ともいえよう。しかし、ここから石鎚を望むことは出来ない。しかしその昔の多くもその「御姿」を思い描きながらの遙拝ではなかったかと推察する。

なお、山頂にある石塔から尾根を北に辿れば清瀬山系まで一時間足らずである。
もう少し涼しい季節で、時間に余裕が有れば塚地峠まで歩いてから「へんろ道」を下るのも一考であろう。


石鎚神社の小祠。右奥の林には「石鎚秘蔵大権現」の石塔が見える。

ダイミョウセセリが飛び交う山頂で少しばかりの探検を済ませると今日はこれで山を下りることにした。想像通りの眺望と心地よい潮風と、予想外に出会った石鎚信仰の証と、里山を守る人々の道標(みちしるべ)。私たちにはこれだけで充分だった。

山を下りながら、この里山を愛する人たちのことに少し思いを馳せてみた。
なにしろ茶臼山保存会の"みなさん"が設置した道標にはずいぶんと勇気づけられた。山頂までの正確な距離といい、道中での的確な設置場所といい、幾度も感心させられた。
登山口の道標によれば宇佐小学校昭和26年の卒業生とあったけれど、するとあの終戦の年に"みなさん"は小学一年生だったのだろうか。
戦後の混乱や南海地震の襲来など、そんな時代にいったいどんな思いでここから「わが町」を見下ろしていたのだろう。


展望所に残る哨戒所の跡。

あの展望広場に残されていた戦争遺跡が私たちに伝えようとする声に耳を澄ませば、"あなたたち"の爽やかな思いが滲みてきた。

世界に誇る九条を変えてまでこの国はどこに向かおうとしているのだろう。
過ちを繰り返さないこと、そして茶臼山から見た美しい景色を守ることが、時代を受け継ぐ私たちの責務だと痛感しながら山を下りた。

もうすぐ今年も終戦の夏が来る。




私たちのコースタイムは以下の通り。
【往路】
登山口<13分>「谷を渡って左へ(山頂まで608m)」の道標<17分>「宇佐石鎚権現組合先達用地」の石柱<4分>鳥居(鎖場)<2分>展望広場<4分>山頂
=40分

【帰路】
山頂<5分>「宇佐石鎚権現組合先達用地」の石柱<12分>「谷を渡って左へ(山頂まで608m)」の道標<7分>登山口
=24分


登山ガイド

【登山口】
塚地坂トンネルや海岸沿いの県道を使って宇佐に入ると塚地峠の登山口をめざします。茶臼山の扉ページに掲載した鷹の石灯籠や塚地峠への道標などに出会うと、小川の右岸を走る狭い車道に入ります。500mほど行くと安政地震の碑が立っています。その先で西に見える民家や墓地が登山口の目印です。付近には駐車スペースがありませんので注意してください。マイカーの駐車については、登山口の確認も兼ねて付近の住民の方にご相談されることをお奨め致します。

【コース案内】
登山口の道標からしばらくの間は広い道が続きます。植林を抜け、石垣が見えてくると最初の分岐です。指導標通りに「谷を渡って左へ」と登ります。道は狭くなり植生も無味乾燥で展望も皆無ですが、親切な道標が山頂へと登山者を導いてくれますので迷うことはないでしょう。「宇佐石鎚権現組合先達用地」の石柱が立つ分岐では石段に向かう方をお奨めします。山頂からの帰途は石塔から北に尾根を下り、すぐの分岐を右に折り返すと、往路の石段に引き返すことが出来ます。なお、文中でふれたように塚地峠まで足を延ばせば半日はたっぷり遊べるでしょう。山頂から塚地峠までは約1.5Kmほどです。また、塚地峠から登山口までは半時間ほどです。


備考

登山道に水場はありません。

若一王子宮で毎年旧暦の9月9日に奉納される「宇佐花取太刀踊り」は土佐市の無形文化財に指定されています。
また、近くにある福智院の蓮は有名です。福智院の奥の院とされる行者堂には役行者が祀られています。また、その裏山にある金毘羅さんには文政年間の手水鉢などが残されています。なお、私たちが訪れた時には照葉樹の林に囲まれてあった金毘羅さんですが、今年になって南海地震の避難場所に指定され、眺望の良い広場になったという報道がありました。


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