竜頭山 2003年10月4日
外洋に出たとたんそれまで穏やかだったのが嘘のように船は激しく揺れ始めた。真横に投げ出された小石が水面を跳ねるように船は大きく上下している。横に座る彼女の顔はみるみる青ざめ、港に着くまでの時間が途方もなく長く感じられた。実際に片島港を出た定期連絡船が鵜来島(うくるしま)に着くまではわずかに50分程度のものだったのだが。
ようやく陸に上がっても身体はまだ揺れたままだった。私はさほどでもなかったのだが、彼女は立っていられないほど参っていた。コンテナを代用した待合所で横になって休む彼女をしばらく待ちながら、私も船着き場の堤防にもたれて船酔いを醒ましていた。目の前には念願の竜頭山がそそり立っていた。
船着き場から見上げる竜頭山。左下に鵜来島小中学校の校舎が見える。
潮風に揺れるハマナデシコを眺めながら小さな港を回り込むと、もう15年も休校になったままの鵜来島小中学校の脇から階段を上る。
寄り添う民家を縫う狭い通路を抜けて、猫の額ほどの段々畑に挟まれた横道に出ると灯台に向かって歩いて行く。水平線には柏島や蒲葵島、沖の島が並んで見える。小さな畑にはサツマイモやダイコン、ネギなどが細々と栽培されている。そんなわずかな農産物を狙って最近はイノシシが頻繁に出没するらしく、畑の周りには柵が巡らされている。数年前に海を泳いで渡ってきたイノシシは小さな島で増え続けているという。案の定、島民に教わった通りに小さな畑のそばから石段を登って山道に入ると林の中には獣の臭いが充満していた。耕作放棄された畑も山道も、いたるところにイノシシの掘り返した跡が見える。照葉樹の茂みを徘徊する物音に混じって、彼らが鳴らす鼻息も頻繁に聞こえてくる。やっと元気になっていた彼女の顔色が再び不機嫌になってきた。
灯台への横道から逸れて山道に入る。
二度ほど折り返してから坂を直登するとなだらかな横道になり、今はわずかに60人ほどが暮らす鵜来の集落が一望になる。眺める私たちの周りをアサギマダラが飛び交い、四国最西端の岬である宮ノ鼻を挟んで、左には沖の島が右には無人島「姫島」が逆光の海原へ影絵のように浮かんで見える。遙々と離島に来た感慨に浸る風景がそこにある。
しかしそんな景色すら、すっかり恐怖に征服されてしまった彼女には何の役にも立たなかった。
登山道から見下ろす鵜来の集落。中央の小山の裏が宮ノ鼻。その左に沖の島、右に姫島が見える。
島にただひとつの貯水タンクへ向かう分岐を通過し、水源地からの導水管を辿って雑草の蔓延る山道を進む。まもなく尾根の近くで現れる狭い階段の手前から左に折れて、今は荒れた参道に分け入る。この道はかつて竜頭山の頂に祀られてあった剣神社への参道でもあった。往時は島民総出で年に二度の道作りを欠かさなかった参道も、数年前に神社を麓に下ろしてからは荒れるにまかせられている。
想像以上のひどい藪に躊躇していると目の前の茂みから鼻を鳴らして一頭のイノシシが逃げ出した。それを機に彼女の不機嫌は頂点に達した。恐怖から怒りへとすっかり混乱した彼女をなだめるうちに、やがて無益な口論になってしまう。そのうち彼女のやり場のない怒りの矛先は突然、大きな怒声となってイノシシに向かった。するとどうだろう、それから獣たちの一切の気配が立ち消えてしまったのである。私たちの馬鹿げた口論に嫌気がさしたのかも知れないし、単に夜行性の彼らの活動時間が終わったからなのかも知れない。いずれにしてもこの先の私たちには幸いなことだった。
背丈を超す藪の中を進む。
しかし、イノシシの襲来という不安が薄らいだとはいえ、登山道の藪は一向に衰える気配がなかった。
昨年、体験学習でこの島を訪れた宿毛の子供たちも竜頭山に登ったと聞いていたので、負けじと悪戦苦闘するのだが、気持ちばかりで歩みは遅々として進まない。目の前に見える二本一組の電信柱を越えて先に進むのに酷く時間がかかったように思える。
ただ、ブッシュは深いけれど山道は判然としている。しかも、マムシがいないというのもありがたい。石垣がつかれた幅1m程の道は適度な勾配で山肌を登っているが、ここは戦時中に軍用道として利用された道でもあった。鵜来島は宿毛湾正面配備の要所として、太平洋戦争開戦時すでに竜頭山の頂には砲台が設置されて、要塞化された島には多数の海軍兵士が配備されていたのである。
そんな当時の生々しい状況を彷彿とさせるような兵舎跡が道の両脇に見えてきた。ざっと見渡してもかなりの規模である。当時は200人を越える兵士や衛兵が配備されていたという。(*1)
(*1)当時、鵜来島の区長だった田中増之助氏によれば兵士衛兵で250人ほどが島に配属されていたとある(宿毛市史)。なお、田中氏は後に鵜来島漁業共同組合初代組合長や旧沖の島村村議会議員などの要職を歴任し、その業績を讃える頌徳碑が鵜来島漁港に建立されている。
ブッシュの薄らいだ林の中でひと息つく。