食事を終えると、名残を惜しみながら竜頭山を目の前に集落まで引き返す。
南に浮かぶ沖の島を眺めたり、竜頭山の南にある「クマガハエ」と呼ばれる大きな断崖を見上げたりしつつ、横道を闊歩しながら集落まで帰ると、島にひとつのお寺「浄土真宗西本願寺真教寺」に立ち寄ったあと、悲しい謂われのある「延元さん」を訪ねることにした。
灯台から引き返す道すがらの景色(竜頭山登山口付近にて)。
島の人に尋ねると、奇特なご婦人が二人で不慣れな私たちを案内してくれるという。願ってもないことに喜んで案内を受けることにした。
案内役の婦人方を先頭に、春日神社に向かう石段の手前から民家の軒先を抜けて林に向かう。四社が合祀された赤い社殿(*2)からは、海に向かって鋭く切れ落ちた急斜面をトラバースしてゆく。樹木がなければ尻込みしそうな道だが二人の足は速くてついてゆくのに苦労する。
道のそばには遷座されて廃れた祠が三つ見える。世直様(よなおりさま)や船魂様(ふなだまさま)、恵比須様などの祠は入り口の社に合祀されて今は抜け殻だけになっている。この道は毎年お盆にお詣りをしているので手入れされていて藪などは無い。とはいえ、照葉樹の落ち葉は滑りやすく急斜面のトラバース道だけに気は抜けない。
やがて、道の左下に瓦屋根が見えてくると、折り返して石段を下り延元さんに着く。
(*2)恵比寿、龍権、船魂(船玉)、世直の四社を合祀して昭和60年12月に鵜来島漁協により建てられている。
合祀されて抜け殻になった恵比寿神社の脇を通り延元さんに向かう。
三本松や夫婦松など数本の松が生えていたという岩陰には瓦葺きの建物があり、松の木のそばには小さな祠堂が祀られている。その中には釈迦如来の種子が刻まれた墓石が収まっており、これがいうところの延元さんで、次のような話が伝わっている。
かつて鵜来島がまだ宇和島藩領だった頃、とある藩士が家老の娘と駆け落ちしてこの島に逃げてきた。藩の追っ手は島中を探したが、うまく逃げおおせた二人はこの松の木のもとで、舌打ちしながら去ってゆく追っ手の船をそっと眺めながら胸をなで下ろしていた。ところが、その男の持っていた刀が西日を受けて光ったのを、ちょうど対岸の谷で洗濯をしていた女が見つけて、言わなくても良いものを大声で知らせてしまった。追っ手が引き返すのを見て、観念した男は女を刺し殺し自分も切腹して果てたという。その後、二人の祟りからか大声を出した女の家には災難が続いたので、ここに祠を建て「延元さん」として御霊を祀ることになったといわれている。そしてその子孫は現在まで毎年の祭りを欠かさないという。悲しい謂われの延元さんだが、今は漁の神様ともなっていてお参りする人も多いという。
同行してくれたご婦人がとつとつと語るそんな物語を聞きながら、遠く海原を眺めていると心なしか波の音まで淋しげに聞こえる。道ならぬ恋だった二人も今はあの世で仲睦まじく暮らしているだろうか。満月の夜、ここから見る月は、それはそれは美しいという。
石塔を祀る延元さんの祠。
さて、打ち寄せる波音を聞きながら延元さんを後にすると、案内してくれた婦人に礼を告げて、私たちは最後の目的地である春日神社に向かった。春日神社のそばには竜頭山の山頂から遷座した剣神社が祀られているのである。
集落の上部にある春日神社へは島独特の注連縄を張った石の大鳥居を抜けて石段を登る。まるでシーサーのようなほのぼのとした狛犬や文化15年奉献の石燈籠の奥に春日神社(春日大明神)はある。ここでは宇和島藩領時代の名残である、かの有名な「牛鬼祭り(*3)」が行われている。しかし、毎年行ってきた祭りも過疎と高齢化でついに今年は中止せざる終えなかったという。淋しい限りである。社殿の軒先に吊された「牛鬼」が再び島を練り歩く日は来ないのだろうか。
ところで、境内横の石段上には大小の祠がいくつも祀られているが、奥のふたつが竜頭山から合祀された剣さんと権現さんである。例の梵字が記された丸石もその下に敷かれているという。ちなみに、祠の奥は鋭く切れ落ちた断崖絶壁で、ここからは姫島が目の前に見える。姫島といえば玉姫さん(*4)が有名だが、その玉姫さんも春日神社のそばに祀られている。
また、この断崖を登ってカワウソが集落に現れたこともあったという。カワウソは日向鼻(ヒュウガバナ)によくいたそうで、時々人を化かしに現れたという。だがそれも日向鼻まで痩せた畑を耕していた頃の遠い昔の言い伝えである。
(*3)宇和島市を中心とする愛媛県南予地方"独特"の祭り。喜多郡河辺村に端を発する牛鬼伝説が起源とされ、四国各地に伝説が多い。牛鬼については「枕草子」の"窮鬼(いきすだま)"や「吾妻鏡」の"牛の如きもの"などに記述があるが、地獄の獄卒"牛頭馬頭"がモデルともいわれる。
(*4)俗に「京女郎伝説」と呼ばれるもので、「玉姫さん」の場合は島の男が京の都から恋した女を連れ帰るが、男には妻があり、妻を説得する間「姫島」に愛人の京女を待たせておいたところ、数日後に訪ねてみると京女は餓死しており、島には災難や不漁が続くので女の御霊を祀るという伝説。このような伝説は各地に多い。
春日神社と昭和34年奉献の狛犬。
見晴らしの良い春日神社から竜頭山を眼前に、港や集落を俯瞰しながら連絡船が来るまでの時間を過ごす。熱いコーヒーを口に運びながら沖合を見渡すと、昼頃まで荒れていた海もすっかり穏やかになっていた。この分なら帰りの船は朝ほど揺れることもないだろう。島独特の時間に身をおいて、しばらくふたりでまどろんでいた。
しかし慌ただしい都会から隔絶された離島の時間を貪るのは実は私たちだけで、島の人たちにとっての時間は決して緩やかだったとはいえないのかも知れない。藩政時代には流人の島(*4)であり、戦時中には本土防衛の前線に位置し、今は過疎の波にさらされている。離島として隔絶していながら、実は時代の荒波を一番最初にかぶっていたのが島の人々だったろう。多くの人の支えがあって今の私たちの暮らしがあることを改めて考えさせられるのだった。
(*4)鵜来島に流罪になった人々は極悪な犯罪人ではなく政治犯などが主であったようである。流人には百姓一揆の首謀者や僧侶などの記録がみえる。
ハマナデシコの咲く港から見る恋月岬。
島を離れる連絡船からもう一度鵜来島を眺めてみた。わずかな時間に出会った人々を思い浮かべながら遠くなるまで眺めていた。ザックいっぱいにお土産を詰めて再び島を訪れるまで、みんな元気でいてくれることを願いながら。
*私たちのコースタイムは以下の通り。
【全行程】
鵜来島港<20分>登山口(山道入口)<64分>竜頭山山頂<44分>登山口<14分>鵜来島灯台<16分>登山口<24分>延元さん<11分>春日神社<10分>鵜来島港
=203分
*宿毛市片島港から鵜来島港までは定期連絡船が一日2便運行しています。所要時間は約50分です。
登山ガイド
【登山口】
鵜来島小中学校の左脇から立派な手すりの施された階段を上り、鵜来島灯台に向かう舗装された横道に入ります。集落を後に灯台へ向かって歩くと、道の左手(山手)に電柱が見えてきます。その電柱を過ぎてから、左カーブになる少し手前に小さな畑があり、その畑に向かって右手に石段があります。ここが登山口です。
【コース案内】
登山口から石段を登ると林に入ります。右手に石垣や耕作放棄された段々畑を見ながら登り、右左に折り返すと急坂の直登になります。登りきると横道に出て左に向かいます。まもなく右手に脇道が現れますが、これは貯水タンクへの道ですから、この分岐は直進して水源地からの導水管を辿ります。やがて尾根が近づくと段々畑の石垣に挟まれて狭い階段が現れます。直進してしまうと尾根を越えて水源やかつての兵舎跡などに向かってしまうので、ここでは石段の手前から左手に向かう道に分け入ります。前方50mほどの所に見える2本一組の電信柱を目標にしてください。後は、山頂まで幅1m位の参道を辿りますが、藪になっていますので苦労するかも知れません。やがて兵舎跡を経て支尾根に出ると、まもなく左手に戦時中の建物(弾薬庫)が現れます。さらに尾根沿いの道をなだらかに行き、左手に現れる階段を登って鳥居をくぐると剣神社の境内です。なお、かつての社殿の裏側に見える小高い場所が砲台跡で、竜頭山で一番標高の高いところになります。帰路は往路を引き返します。
鵜来島灯台へは、登山口からさらに横道を北東に向かいます。登山口から3分ほどで横道は左カーブになり、集落からの舗装道は終わります。ここで左カーブの外側に階段が見えますので、運輸省の標石を辿って灯台に向かいます。道は一本道ですから迷うこともなく灯台に至るでしょう。
延元さんに行くには集落上部にある春日神社の階段の手前を左に逸れ、二軒の民家の軒先を抜けると、四社合祀の赤い社殿があります。ここから山肌をトラバースすると山道の左下に延元さんの瓦屋根が見えてきます。ここは急斜面や断崖が多いのでくれぐれも用心してください。
備考
登山道に水場はありません。
簡易水道施設ができてから島の水不足は解消されたそうですが、それでもまれに水不足になり、宿毛市から船でのタンク給水を受けることがあります。離島での水は貴重なものです。くれぐれも飲み水は持参してください。
「竜頭山(りゅうとうざん)」の山名のうち、「竜」には「龍」の字をあてる場合もあります。ここでは宿毛市の小字一覧から竜頭山としました。
また、山頂の標高は宿毛市史などで252mとしているものもありますが、ここでは1/25000の地図を参考にしました。なお、緯度経度はおおよその値です。
文中に出てくる日向鼻へは集落中央の谷部を登り、教員宿舎跡(現在廃屋)への分岐を通過して、断崖の上をトラバースする道があったそうですが、今は藪になっているそうです。また、かつては竜頭山から日向鼻への道もあったそうですが、それも竜頭山の裏に拓いた畑を耕作放棄してからは廃れてしまったようです。
鵜来島は藩政時代頃には卯来島とも記されており、海鵜がたくさん来るところから名付けられたといわれています。なお、その昔は「浮島」や「天蓋島」とも呼ばれていたようです。