稜線の南側に大規模林道が近いということもあり、加えて仲間と一緒ということも手伝って、鬱蒼とした灌木の中も一向に寂しさは感じないが、ほんのこの間までこの辺りはいたって静かで寂しい深山であったに違いない。
この辺りであろう「から岩」という突き出た岩があり、その岩の元には穴が開いていて、昔そこに老いた人を捨てたという伝説が残っている。
いわゆる棄老伝説、俗に言う姥捨て山伝説である。
愛媛県美川村や高知県吾川村から、還暦を迎えた老人がその家族に連れられてこの山に置き去りにされたという口伝がひっそりと、だがかなりの信憑性をもって伝えられてきたという。
高いたき(断崖のこと)から落とされたり、身体を縛られて山中に捨て置かれたという話もある。
渡辺裕二著『姥捨山の伝説』に出てくるいくつかの話しによれば、カラ池一帯から黒滝峠にかけて、またこの後帰途に辿る道で出会う「鳥居」の辺りまで、驚くことに雑誌山一帯が姥捨山であったと推察される。
いくら貧しいとは云え、産み育ててくれた母親を捨てられるだろうか?それも"たき"から投げたり穴に落としたり、山犬の居る深山に置き去りにしたり。
それが"姥捨て"は本当に行われたのかと長く思われてきた訳でもあり、事実それがあったとしたら村にとっては重いタブーであった所以でもあろう。
しかし、有名な深沢七郎の「楢山節考」や柳田国男の「遠野物語」に代表されるような日本人的美学の裏側で、米はもちろんのこと粟や稗さえも耕作できない貧しい人々が居て、親殺し子殺しという習慣が、本当は認めたくはないけれど現実として行われていたのかもしれない。
カラ池界隈から雑誌山方向を見上げる。カラ池は湿地帯で、ササやカヤなどに覆われている。
話しが少し逸れてしまったが、悪戦苦闘して往還の道筋を辿って行くと、やがて灌木は薄くなり、ササの中で横道に出る。ここまで雑誌西山から15分あまり。ここで交差する道は案外ハッキリしていてひとまず安心する。
まずは右(西方向)に向かいカラ池に散策する。
カラ池は、この辺りに広がる湿地全体をさして呼ぶもので、水を満々と蓄えた特定の池が存在する訳ではなく、近郷の人々の話を要約すれば湿地である辺りすべてをカラ池と総称するようである。
普段はササやカヤに覆われた湿地もひとたび大雨が降ると水を蓄えた池に変身し、山野草の咲く季節なら珍しい「水中花」を見ることができ、それは素晴らしく幻想的な光景だという。
なお、「カラ(空)池」はこの湿地の西隣に聳える1352.1mのピークにある4等三角点の名前でもあるが、私はいまだその頂を踏んだことはない。
やさしい色をしたマユミの実。
さて、カラ池を散策した後は引き返してそのまま踏み跡を東へと雑誌山の南腹をトラバースして行く。
胸までのササの中を10分ほど行くとやがて踏み跡は植林の中に入って行き、変化のない薄暗い中の歩行になる。
そうして少しずつ高度を下げて行くとカラ池から20分ほどで植林の中、右手に造林作業小屋が見えてくる。
この小屋を過ぎて回り込むと植林の中の小さな流れに出会う。
水の峠を出てからほんとうに久しぶりの水音だった。
植林の中で出会う水場。上流部でうずくまり、伊藤君が喉を潤す。
水場を過ぎると道は緩やかな登り坂になり、水場から5分あまりで植林の中、左手に鳥居が現れる。
注連縄が張られた鉄製の鳥居の元には手水鉢があり、また鳥居の奥には石灯籠が2基立っている。
そばには「アカダキ山官行造林」の看板もある。
ここから鳥居をくぐって登って行った先が、往路で横切った「掘れ込んだ道」であり、石鉄宮の祠に向かっているのは間違いないだろう。
植林の中にひっそりと鳥居が立っている。
さて、鳥居から更に往還の道を東に進むと、間もなく道はヤブ化してしまう。
仕方なく、ヤブ漕ぎよりは長くとも大規模林道を歩くのが無難と判断して、道を引き返し、水場の付近から林道に下る道を見つけて、5分ほどで林道に下り立った。
下り立った下山地点には嶺北森林管理署が立てた「歩道入り口」の白い看板があり、ここは大規模林道の舗装が終わり幅員が狭くなってから50mほど西に位置する。
この下山口から逆に雑誌山山頂をめざす場合は、「歩道入り口」の看板から上方の植林を登り、横道に出たら右に向かい、まもなく出会う鳥居をくぐり、尾根に出たら左(西)に向かい、祠を過ぎれば、短時間で山頂に到るであろう。
(*私たちは実際に全ルートを踏査してはいませんので、鳥居から尾根までの状態などは、実際に歩かれた方のレポートをお寄せくださいますようお願いします。)
大規模林道終点近くの登山口に降り立った。「歩道入り口」の看板が見える。
さて、当初からこうなることが(ここに下りてくることが)分かっていたなら、2台の車を回送しておいて早々と帰途につけたのだが・・・。
思惑が外れた私たちは最悪のコースを辿って登山口の水の峠まで引き返すことになった。
大規模林道は谷を尾根を延々と大きく蛇行しており、その距離は想像するのさえうんざりする。
しかし、いつでも山歩きは自分の足で帰る他ない。
広い林道のセンターラインを跨ぎ、たった1台の車にさえ出会わない道路を延々と歩くのである。
いつまで歩いても水の峠が見えてこない。
秋の陽は西に傾き、日陰は薄暗くなって、路傍のススキがいっそう寂しさを誘う。
林道から遙かに俯瞰する池川町の中心地はまもなく夕闇に包まれようとしている。
そうして何度目かの張り出した尾根を廻り、ようやく水の峠を源とする谷を横切るところで左手に上がる未舗装の車道を見つけた。
陽の傾いた大規模林道を延々と歩く。
ここからは最後の賭けだった。
地図に記されている点線(歩道)が健在ならこの作業道を横切っているに違いない。いや、そうあって欲しい、それは全員の願いだった。
水の峠に向かう山道さえ見出せば登山口の水の峠まではそう距離は無いはずである。
長い林道歩きは下山口からここまで延々2時間近くになろうとしており、このまま車道を辿ればまだざっと1時間半は歩かなければならないであろう。
しかし、ここでもまた引き返すことになればその疲労は大きい、ここは一番若くて健脚の伊藤君にすべてを託した。
無線機の周波数をセットし、懐中電灯やヘッドランプを取り出す。日没まではあと僅かだった。
ずっと先で息を切らせながら水の峠へ向かっていた伊藤君から「水の峠に出た!」と連絡が入ったのはそれからまもなくのことだった。
彼に導かれて竹林の縁に沿いながら山道を登り詰めると、ぽっかりと大師堂の広場に飛び出した。
と、同時にすっと辺りは闇に包まれたのだった。
まもなく夕闇に包まれようとする池川の町。
*全行程の私たちの所要時間(コースタイム)は以下の通り。
【往路】
水の峠登山口<40分>自然石の山界標石(82番の標柱)<22分>1298mのピーク<33分>祠<11分>雑誌山山頂
【復路】
雑誌山山頂<18分>雑誌西山<30分>カラ池<33分>鳥居<25分>大規模林道登山口<107分>作業道入り口<24分>水の峠登山口
備考
今にして思えば、帰途は山中で出会った鳥居から雑誌山の尾根筋まで登り、後は往路を引き返した方が正解だったように思います。
水の峠の湧き水は大師堂の西側にあり、弘法大師が杖で地面をたたくと水が湧き出たという言い伝えが残されています。