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マレーシアをはじめ、日本や世界各地の日本人墓地、日本人慰霊碑、歴史に関するゆかりの場所などを訪問しました。その時の写真を下記リンク先に掲載しました。あわせてご覧ください。
(リンク先)
Go!Go!キョロちゃん (Vol.M-011)
日本や世界各地の日本人墓地・慰霊碑・日本人町跡・歴史遺構など
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マレーシア日本人墓地を訪ねて
Japanese Cemetery in Malaysia
かつてマレーシアを旅行した時、サンダカンに日本人墓地があることを知り、訪れました。
その後、いろいろと調べてみたところ、マレーシア各地に日本人墓地があることがわかりました。
そこで、その中のいくつかの日本人墓地を訪れてみました。その時の写真などを掲載しています。
各日本人墓地の地図も作成しましたので、それらも掲載しておきます。
また、関連するモニュメント、建造物なども掲載しました。

日本人墓地

(1) クアラ・ルンプール日本人墓地
Japanese Cemetery in Kuara Lumpur

所在地 No.2, Jalan Lapangan Terbang Lama, Kuala Lumpur
[Map]
墓地開設時期 詳細な開設時期は不明であるが、古い日本人墓地の門柱に「明治24年」との記述があり、これから判断して、同墓地の開設は「明治24年」と推定される。
墓地概要 面積 : 2エーカー (8,093u)
墓石数 : 1940年及び46年に作成された名簿によると、最も古いのは1891年に死亡の女性で、戦前の被葬者は270余名(うち7割が女性)、戦中・戦後は200余名(うち8割が軍関係者)。○○以下○○名といった無名の埋葬者を入れると、総数は560名になる。風雨に曝されて判読不能な墓標、原形をとどめないほど朽ちかけた墓標、名簿にあるものの既に何の痕跡もない墓も多い。現状を記録に留めると共にできるだけの修復を行うことが急務となっている。


クアラ・ルンプル日本人墓地の正門
門柱には「日本人墓地」と書かれたプレートが設置されています。
敷地内には立派なお寺(本堂)もありました。


整然と並んだ墓石
墓地内はレンガの小道があり、雑草や落ち葉などは取り除かれ、きれいに整備・手入れされていました。


慰霊塔
太平洋戦争での犠牲者の慰霊塔です。裏面には次のように刻まれていました。

われわれは太平洋戦争の戦火に倒れたわが仲間および各国軍人と住民の慰霊を弔うとともにマレーシア連邦国民の平和と反映を祈る

We Japanese mourn for the sprits of the citizens and soldiers of all countries who fell in WORLD WAR II and wish peace and prosperity to the Malasian Federation
September 1978


こけ生した墓石
明治や大正時代などかなり古い墓石も多く、中には刻まれた文字が判読不能なまでに風化した墓石もありました。
そんな昔から多くの人がこんな遠くに渡り、住んでいたことにびっくりしました。


JA8051号機遭難者 慰霊碑
1977年にクアラ・ルンプルで発生した飛行機事故の犠牲者のための慰霊碑です。

【資料】
日本航空クアラルンプール墜落事故


1977年(昭和52)年9月27日、日本航空715便DC-8-62型(JA8051)が 悪天候の中クアラルンプール空港に着陸進入中に墜落し大破。旅客26名及び乗組員8名死亡,旅客43名及び乗組員2名重軽傷。


墓地お墓の管理人さん
日本人墓地を管理しているスタンレー(Stanley)さん。
墓地敷地内にあるお寺(本堂)に住んでいます。
もう何十年もこの墓地を管理しているとこのとでした。
ちなみにこの墓地では、毎年2回(春と秋のお彼岸のころ)、日本からお坊さんを呼んで慰霊祭をおこなっているそうです。

クアラルンプール日本人墓地を再訪いたしました。
その時の写真を下のリンク先に掲載しました。
あわせてご覧ください。
写真は約100枚掲載しています。


(リンク先)
Go!Go!キョロちゃん (Vol.293)
「クアラルンプールの日本人墓地を訪ねて (マレーシア) 」
(埋葬者の人名リストあり)

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クアラルンプール日本人墓地を再訪いたしました。
その時の写真を下のリンク先に掲載しました。
あわせてご覧ください。


(リンク先)
Go!Go!キョロちゃん (Vol.875)
「クアラルンプール日本人墓地を再訪。すべての墓石と墓標を撮影。 」

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(2) ジョホール・バル日本人墓地
Japanese Cemetery in Johor Bahru

所在地 No.1142, Jalan Kebun Teh, Johor Bahru, Johor
[Map]
墓地開設時期 資料「クアラルンプールの日本人墓地」には、「1917年」と記されているが、正確な開設時期に言及した資料はなく詳細不明。
1962年(昭和37年)頃 Textile Corporation of Malaysia Bhd.(TCM)が操業を始め、ユニチカ(当時ユニボウ)及び三井物産の社員が、近藤さん(名前不詳)という高齢の日本人女性より日本人墓地があることを聞き、ジャングルと化していたこの墓地を見つけ出して切り開き、現在の状態に復元。
墓地概要 面積 : 1エーカー 1ロード 35.5ポール (約4,600u)
墓石数 : 発見当時(1962年)は、約80基の墓があったが、ほとんどが木の墓標であったため朽ち落ちてしまった。現在は墓碑6基、墓標6基の他に「真如親王供養塔」、1982年にジョホール・バル近郊で発見された「柔仏(ジョホール)水道・敵前渡過・戦跡記念碑」が残るのみ。他に1994年9月ジョホール日本人会が建立の合同慰霊碑がある。


ジョホール日本人墓地の看板
道路に面したところに大きな看板が建っているのですぐにわかるはずです。


墓地の敷地内の様子
かなり広い敷地に墓石や供養塔などが点在しています。
敷地内はきれいに手入れされていました。


招魂碑
敷地の片隅にあった大きな招魂碑と記念碑です。
記念碑(写真左)と招魂碑(写真右)は、ジョホール州コタ・ティンギ群トロ・スンガイ (Telok Sungai)にあったものをここに移設したようです。
1915年(大正4年)、現地でゴム園の開拓に従事した関係者が南洋神社を建て、その敷地内にこれらの碑を建立したとのことです。
招魂碑(写真中央)は、ジョホール州コタ・ティンギ群センガット(Sengat)にあったものをここに移設したようです。1917(大正6年)秋に建立したとのことです。


ジョホール州の各地から移葬した墓石
ジョホール州各地にあった日本人墓地の墓石を移葬・集約したそうです。
移葬した日本人墓地は下記の通りです。
・バト・パハ (Batu Pahat)
・トロ・スンガイ (Telok Sungai)
・スガマット (Segamat)
・トロ・センガット (Telok Senggat)
など。
ジョホール州だけでもこんなに多くの日本人墓地があったんですね。
もしかしたら、まだ発見されていない日本人墓地が各地にあるかもしれませんね。


ジョホール水道 敵前渡過 戦跡記念碑
手前に横たわっているのが戦跡記念碑です。
表面の文字は風化して読み取るのが困難でした。(人為的に表面を削り読めなくしたようにも見えました・・・。)
表面には以下のように刻まれているとのことです。

ジョホール水道 敵前渡過 戦跡記念碑
陸軍中将 山下奉文
昭和十七年 (月日解読できず)
横山部隊

【資料】
ジョホール水道 敵前渡過 戦跡記念碑


記念碑は、1942年(昭和17年)約3000人の旧日本軍将兵が望郷の念にかられながら戦死したマレー攻撃の中でも、最も激戦をきわめたとされる「ジョホール水道渡河作戦」のあと、当時第25軍司令官だった故山下奉文中将が建立した高さ2.6m、幅60cm、厚さ15cmの御影石製で、山下中将の署名がある。
終戦直前の1945年(昭和20年)6月ごろから行方がわからなくなり、関係者が探していたところ、1982年(昭和57年)10月、ジョホール水道河畔のジョホール州リド地区で現地の人が公園を建設中、二つに折れ、地中に埋もれていたのを発見。1983年(昭和58年)9月、州政府の許可もおり、日本人墓地に搬入、現在に至っている。
発見当時、現地の中国系新聞南洋商報は、”従山下奉文石碑出土−回溯日侵興新山淪陥”の見出しで大々的に報じている。また、日本の新聞各社も朝日新聞、日本経済新聞、北海道新聞等の記者が取材した記録がある。

「マレイシアの日本人墓地及び墓標」より引用


真如親王供養塔
平城天皇の第3皇子である真如親王が、当時の唐の国(現在の中国)を経て天竺(現在のインド)に仏法の奥義を極めるための渡航途中、病にたおれ、ここジョホール・バルで亡くなられたと言われているそうです。
西暦860年頃(今から1100年以上前)のことだそうです。
供養塔には下記が刻まれていました。

高野山親王院善教建終焉

高野山親王院の開基真如親王は平城天皇の第三皇子高丘親王なり嵯峨帝の儲たりしが後落飾して弘法大師の法資となる。大師入定の後支那に渡っ て佛道を修学すること三年更に佛教の玄底を盡さんとして咸通六年一月二十七日廣州を船出して印度に赴くの途次ジョホールに於て生年六十七を 一期に遷化す。嗚呼法を求めてあらゆる難に堪へ遂に志を果すに至らず遠く異域に遷化されたる非運を偲び爰に恩師堯榮和上宿願に任せ供養の寶 塔を建立するものなり

告 昭和四十五年庚戌年一月
日本高野山親王院小住
前左学頭 善教 敬白

2014年 1月、ジョホールバル日本人墓地を再訪いたしました。
その時の写真を下のリンク先に掲載しました。
あわせてご覧ください。
写真は約190枚掲載しています。


(リンク先)
Go!Go!キョロちゃん (Vol.576)
「ジョホールバルの日本人墓地を訪ねて 」
(マレーシア)

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(3) マラッカ日本人墓地
Japanese Cemetery in Malacca

所在地 No.120, SectionIII, Bandar Bukit Baru, Malacca
[Map]
墓地開設時期 1910年頃には既に日本人墓地が設けられていたと考えられる。また、第二次大戦前まではマラッカ日本人会(当時)が維持管理に当たっていたと言われている。
1976年(昭和51年)10月28日 アジア経済研究所の原不二夫氏がマラッカにも日本人墓地があることを知らされて探したところBukit Baruに所在を発見。
墓地概要 面積 : 594u
墓石数 : 
(1) 墓石数 : 34基(うち台石のみのもの3基)
(2) 没年 : 明治44年(1911年)〜昭和19年(1944年)
(3) 出身地 : 長崎11名、熊本8名、山口2名、岡山、和歌山、佐賀、徳島、島根、広島、神奈川、新潟各1名
(4) 建立者 : マラッカ日本人会16基、仏教婦人会1基、個人10基、部隊1基、不明6基


マラッカ日本人墓地の正門
私が訪れた時、管理人の方が敷地内の清掃をしていたため、門は開いていました。


正門から見たところ
門を入ったところに「馬六甲 日本人墓地」と刻まれた石碑が建っています。
ちなみに ”馬六甲”とは ”マラッカ”の現地の中国語表現です。(マレーシアには多くの華僑が住んでるので、いたるところで漢字表記がされています。)


墓地内の光景
敷地の真ん中に東屋が建っています。この中には清掃道具や祭事で使う什器類が保管してありました。


墓地内の光景
明治・大正時代のかなり古い墓石もあり、刻まれた文字が読解不能のものや土台だけのものもありました。


敷地の外から見た墓地の光景
墓地の周りはフェンスで仕切られています。


管理人のおじさん
炎天下、管理人のおじさんは汗びっしょりになりながら墓地の清掃をしていました。そのためか墓地内はとてもきれいでした。
ご苦労さまです。

2014年 1月、マラッカ日本人墓地を再訪いたしました。
その時の写真を下のリンク先に掲載しました。
あわせてご覧ください。
写真は約100枚掲載しています。


(リンク先)
Go!Go!キョロちゃん (Vol.543)
「マラッカの日本人墓地を訪ねて」
(マレーシア)

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(4) ペナン日本人墓地
Japanese Cemetery in Penang Is.

所在地 Lot No.10, Jalan Rawang, 10150, Penang
[Map]
墓地開設時期 埋葬されている者の墓標等から判断して、ペナン日本人墓地が開設されたのは、明治20年代から30年代にかけてであると推測される。因みに、明治42年には長崎県島原大師堂の言証氏(名前不詳)が「からゆきさん」の施餓鬼供養のためペナン日本人墓地を訪れたとの記録もあり、当時ペナンには100名を越える「からゆきさん」がいたと言われている。
墓地概要 面積 : 約1,200u
墓石数 : 56基


ペナン日本人墓地の正門
通常は鍵がかかっています。管理人は門の前(道路をはさんだ前)の家に住んでいます。声をかければ鍵をあけてくれます。


正門から入ったところ
正門からまっすぐに一本の道がのびています。その両側に墓石が並んでいます。


慰霊塔
敷地の奥にこの慰霊塔がありました。


墓石
ここの墓地の墓石の多くは平たいものでした。


墓石
整然と墓石が並んでいます。


軍艦最上病没諸士之碑
この碑は、大正七年十一月に建てられたものです。海軍兵15名の名前が刻まれていました。

2014年 1月、ペナン日本人墓地を再訪いたしました。
その時の写真を下のリンク先に掲載しました。
あわせてご覧ください。
写真は約150枚掲載しています。


(リンク先)
Go!Go!キョロちゃん (Vol.541)
「ペナンの日本人墓地を訪ねて 」
(マレーシア)

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(5) イポー日本人墓地
Japanese Cemetery in Ipoh

所在地 18, Jalan Sungai Pari, Ipoh
[Map]
墓地開設時期 明治後期。 因みに、資料「クアラルンプール日本人墓地 −写真と記録と改修工事−」には「1906年」との記載あり。
墓地概要 面積 : 1エーカー 1ロード 35.5ポール (約6,000u)
墓石数 : 
 個人119柱。 合葬塔5
 無縁塔1(明治43年合葬碑)
 終戦時無縁塔1(昭和54年合葬碑)
 合祀記念碑1(昭和42年 タイピン地区合同葬)
 合祀記念碑1(昭和49年 トゥル・アンソン地区合同葬)
 合祀碑1(昭和22年 い志ずえ草課加隊)
没年 : 
 明治 : 80柱(男17、女59、不明4)
 大正 : 24柱(男5、女18、不明1)
 昭和 : 11柱(男4、女7)
 年代不明 : 4柱


イポー日本人墓地の正門
通常は施錠されています。敷地内に管理人が住んでいますので、声をかければ開けてくれると思います。
私が訪れた時は不在でしたので、敷地の外から撮影しました。


整然と並んだ墓石
この墓地もきれいに手入れされていました。


変わった形の墓石
このお墓に埋葬されている方の出身地は 長崎縣北高来郡諫早村 と刻まれていました。


ペラ州の各地から移葬した墓石
ここイポーがあるペラ州各地にあった日本人墓地の墓石を移葬・集約したものです。
移葬した日本人墓地は下記の通りです。
・タイピン日本人墓地 (左)
・テロ・アンソン(現テロ・インタン)日本人墓地 (右)


墓石
ここも明治・大正時代の古い墓石が多くありました。


無縁塔
敷地の隅のほうにひっそりと建っていました。

2014年 1月、イポー日本人墓地を再訪いたしました。
その時の写真を下のリンク先に掲載しました。
あわせてご覧ください。
写真は約235枚掲載しています。


(リンク先)
Go!Go!キョロちゃん (Vol.542)
「イポーの日本人墓地を訪ねて」
(マレーシア)

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(6) トレンガヌ日本人墓地
Japanese Cemetery in Kuara Terengganu

所在地 Lot No.3568, Jalan Pusara, Kuala Terengganu
[Map]
墓地開設時期 1913年(大正2年)日本鉱業(1927年より露天掘り開始。年産90万トン。)の進出にともない日本人移民の移住が始まる。墓地の開設は1914年ないし1915年頃と推定される。
1994年(平成6年)3月 クアラ・トレンガヌ旧日本人墓地発見。
墓地概要 面積 : 942u
墓石数 : 9基。(うち3基はドゥングンより移葬)


クアラ・トレンガヌ日本人墓地の正門
門は施錠されていましたが、右横にある通用門が壊れていて自由に入ることができました。(2004年7月現在。)


日本人墓地の石碑
正門を入ったところにあります。
右側に行ったところに墓石があります。
左側には「谷豊の碑」があります。


墓地内の様子
ほとんどのお墓は、墓石が無くなり土台の石組みだけでした。
同じトレンガヌ州のドゥングン(Dungun)にあった日本人墓地の墓石もここに移葬されていました。


墓地内の様子
私が訪れた時は、多少雑草が伸び、落ち葉も散らばったた状態でした。


「快傑ハリマオ」 は存在した!!!
私は生まれていなかったので知りませんが、昭和30年代のTVヒーロー「快傑ハリマオ」のモデルとなった谷 豊さんの記念碑です。(お墓ではありません。)
かつてここ クアラ・トレンガヌ に住んでおり、現地では「マレーのハリマオ(虎)」 と呼ばれていたそうです。
碑文の内容は以下の通りです。


谷 豊 の 碑

およそ百年前から、ここトレンガヌには数十人の日本人が住んでいた。あるものは商人として、あるものは技術者として、この街の人々とともに暮らし、助け合っていた。
一人の青年がいた。名前は谷豊。明治四十四年十一月十五日、福岡県筑紫郡に生まれた。大正二年、豊は家族とともにトレンガヌの土を踏んだ。家族は理髪業を営み、誰からも分けへだてなく親しまれたという。
太平洋に暗雲が立ちこめ、豊の家族も時代の荒波に翻弄された。そうした中、豊はイスラムに帰依し、マレー人として生きる道を選んだ。戦争という漆黒の闇がマレー半島を覆う頃から、豊は『マレーのハリマオ』として伝説の人になった。昭和十七年(一九四二年)三月一七日、三十一歳の『マレーのハリマオ』はシンガポールで死んだとされている。彼もまた戦争の犠牲者だった。
豊はマレー半島を愛し、ここに住む貧しい人々を愛した。改装なったトレンガヌ日本人墓地開所にあたり、日本人とこの地に住むすべての人々との永遠の友情の証として、ここに記録する。

一九九五年六月吉日
在ペナン日本国総領事 七海祥朗
トレンガヌ日本人会会長 竹中敏明
トレンガヌ日本人会建立



谷 豊さんの父と妹のお墓
"マレーのハリマオ" と呼ばれた谷 豊さんの父・浦吉さんのお墓(手前)と妹・静子さんのお墓(奥)です。
1994年3月に発見され、谷 豊さんの実弟・谷繁樹さん(福岡市在住)によって59年ぶりに確認されました。
発見された当時は墓石は失われ、基底部の石組みだけだったようです。そのため、現在の墓石は比較的新しいものでした。
なお、1942年(昭和17年)3月にシンガポールで死亡した谷 豊さんのお墓(埋葬地)はいまだ不明のようです。

谷 豊さんの父・浦吉さんの墓石(写真手前)に刻まれた文字
正徳院是良信士 伍
昭和六年十二月廿七日亡
俗名 谷浦吉
行年 三十四才

谷 豊さんの妹・静子さんの墓石(写真奥)に刻まれた文字
妙静児女
昭和七年十一月六日亡
俗名 谷静子
行年 六才

【資料】
「怪傑ハリマオ」のモデルにもなり、現地では「マレーのハリマオ」とよばれた 谷 豊 さんについて


昭和30年代のTVヒーロー「快傑ハリマオ」のモデルとなったその人の名は、福岡県出身の「谷 豊」(1911〜1942)。
子どもの時、理髪店を営む父母と英領マラヤ(現マレーシア)へ渡る。
徴兵検査のため昭和6年に帰国するが、翌年、華僑反日暴動で妹が殺害され再度渡航。
この事件をきっかけに、昭和十年代に『復讐のため』と称して盗賊団の頭目となり、密林を神出鬼没に駆けまわり、華僑や英国人から金品を奪って地元の貧しい人々に分け与える。このような義賊的な行動により、いつしか義賊「マレーのハリマオ」と呼ばれるようになった。
その後、「ハリマオ」のうわさを聞いた旧日本陸軍特務機関が彼を軍属として徴用。太平洋戦争ではハリマオは日本軍として参加。マレー人の部下を率いて英国軍のかく乱工作にあたる。
シンガポールを目指す途中に過酷な行軍がたたりマラリアに倒れ、昭和17年3月シンガポールの病院で死去。30歳。

ちなみに「ハリマオ」とはマレー語で「虎」を意味します。

そういえば、アニメ 「ルパン三世」 (劇場版)で 「ハリマオの財宝を追え!!!」 というのがありましたね・・・。(第二次世界大戦中、マレーで暴れまわったハリマオの財宝を探す話。)

2014年 1月、クアラ・トレンガヌ日本人墓地を再訪いたしました。
その時の写真を下のリンク先に掲載しました。
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写真は約100枚掲載しています。


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Go!Go!キョロちゃん (Vol.578)
「クアラ・トレンガヌの日本人墓地を訪ねて 」
(マレーシア)

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(7) サンダカン日本人墓地
Japanese Cemetery in Sandakan

所在地 Jalan Istana, Sandakan, Sabah
[Map]
墓地開設時期 詳細不明。
1972年(昭和47年) サンダカン在住の在留邦人が、現日本人墓地を発見。在コタ・キナバル領事館館員を派遣し、この事実を確認。
墓地概要 墓石数 : 6基


サンダカン日本人墓地の入口
ここから細い坂道を登っていきます。


墓石
六基の墓石が並んでいます。地盤が軟弱なためか、多少傾いたお墓もありました。


海を見渡す
墓石があるところからは海が見渡せます。
サンダカン日本人墓地を再訪いたしました。
その時の写真を下のリンク先に掲載しました。
あわせてご覧ください。


(リンク先)
Go!Go!キョロちゃん (Vol.894)
「サンダカン日本人墓地を訪ねて」
(マレーシア・サンダカン)

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(8) コタ・キナバル日本人墓地
Japanese Cemetery in Kota Kinabalu

所在地 Jalan Tuaran, 2・1/2 Mile, Kota Kinabalu, Sabah
墓地開設時期 1963年(昭和38年) 当時、コタ・キナバルを管轄していた在シンガポール総領事館館員によって、日本人墓地の存在が確認された。
墓地概要 面積 : 667u
墓石数 : 墓石17基。墓標3基。石碑2基。
戦前からの在留邦人の墓であり、埋葬者には軍関係者は含まれていない。1983年に移石した墓石以外は、墓碑名等は判明していない。
コタキナバル日本人墓地を訪問いたしました。
その時の写真を下のリンク先に掲載しました。
あわせてご覧ください。


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Go!Go!キョロちゃん (Vol.887)
「コタキナバル日本人墓地を訪ねて」
(マレーシア・サバ州)

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(9) タワウ日本人墓地
Japanese Cemetery in Tawau

所在地 Tanjong, Batu Road, Tawau, Sabah
墓地開設時期 1960年(昭和35年)頃 当時タワウに日本人墓地が市内2カ所に存在していたとの記録有り(1ヶ所については詳細不明)。
墓地概要 面積 : 8,000u
墓石数 : 4基(埋葬者は日産農林関係者)
タワウ日本人墓地を訪問いたしました。
その時の写真を下のリンク先に掲載しました。
あわせてご覧ください。


(リンク先)
Go!Go!キョロちゃん (Vol.899)
「タワウ日本人墓地を訪ねて」
(マレーシア)

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(10) ラブアン日本人墓地
Japanese Cemetery in Labuan Is.

所在地 Botanical Garden, Jalan O.K.K. Abudullah, Labuan
墓地開設時期 詳細不明.。
1965年(昭和40年) 当時は「戦没日本人の碑」と記された石碑、3個の墓標、5個の埋葬跡が存在した。
墓地概要 面積 : 137,25u
墓石数 : 10基。 なお、10基のうち3基については、いずれも墓石等がなく土饅頭のみであるので、埋葬者氏名は不明。また、詳細不明であるが、同地にて死亡した在留邦人が埋葬されているとも言われている。
ラブアン日本人墓地を探しました。
その時の写真を下のリンク先に掲載しました。
あわせてご覧ください。


(リンク先)
Go!Go!キョロちゃん (Vol.879)
「ラブアン植物園内の日本人墓地を探して
(マレーシア・ラブアン島)」

【たどり着けなかった編】

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ラブアン日本人墓地を探しました。
その時の写真を下のリンク先に掲載しました。
あわせてご覧ください。


(リンク先)
Go!Go!キョロちゃん (Vol.1192)
「ラブアン植物園内の日本人墓地を訪ねて
(マレーシア・ラブアン島)」

【たどり着けた編】

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(11) ミリ日本人墓地
Japanese Cemetery in Miri

所在地 Tanjong Lobang, Miri, Sarawaku
墓地開設時期 ボルネオ燃料工廠のほか、工廠配属部隊、その関係部隊の戦没者1,053柱及び戦時中にマレイ人、中国人、インドネシア人、インド人等の日本軍の協力中に死亡した多くの人々も葬られている。また、敗戦の際に撤去されたミリ日本人墓地(詳細場所不明)に眠る先人の弔い場所でもある。
墓地概要 墓石数 : 1基。 埋葬者氏名は判明していないが、主にボルネオ燃料工廠関係者戦没者1,053柱とマレイ人、中国人、インドネシア人、インド人等。
ミリ日本人墓地を探しました。
その時の写真を下のリンク先に掲載しました。
あわせてご覧ください。


(リンク先)
Go!Go!キョロちゃん (Vol.1188)
「ミリ日本人墓地を訪ねて
(Tun Datu Tuanku Haji Bujang College内)
(マレーシア・サラワク州・ミリ)」

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(12) クチン日本人墓地
Japanese Cemetery in Kuching

所在地 Town Land, Lot No.47, Section No.36, Survey Plan, No.W43-6-8-7 and 3239C, Kuching
墓地開設時期 正確なところは不明であるが、邦人の在留状況から判断して1900年代初頭に開設されたと推察される。
墓地概要 面積 : 約3,500u
墓石数 : 46基。 埋葬者は、戦前から同地に在留していた主に日商会関係者。
クチン日本人墓地を訪問いたしました。
その時の写真を下のリンク先に掲載しました。
あわせてご覧ください。


(リンク先)
Go!Go!キョロちゃん (Vol.892)
「クチン日本人墓地を訪ねて」
(マレーシア・サラワク州)

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関連モニュメント・建造物 など

(A) コタ・バル 戦争博物館
War Museum in Kota Bharu

所在地 Jalan Hospital, Kota Bharu, Kelantan


戦争博物館
1941年12月8日、真珠湾攻撃の数時間前、日本軍はここコタ・バル(実際はここから約13Km離れた パンタイ・サバッ(Pantai Sabak)海岸)で奇襲上陸作戦を決行し、太平洋戦争が始まりました。
このことから、この博物館の展示の多くが第二次世界大戦時の日本に関するものでした。
戦争博物館として使われているこの建物も、日本占領時は 日本の秘密警察(憲兵隊)総指令本部 として使われ、歴史的建造物として保存されています。

以下は、この戦争博物館の前に設置してあった案内板の説明です。

WORLD WAR II memorial

This building, built in 1912 was first used as a commercial bank. The Mercantile Bank of India Limited, thus the name Kerapu Bank. The word "Kerapu" however refers to the rough exterior walls of the building. During the Japanese Occupation from 1942 to 1945, this building was used as the headquarters of the Japanese secret police, the Kempeitai. After the war, the building was reused as a bank.

In 1981, the first floor of the building was converted into an Art Gallery while the ground floor was used to display handicrafts. The building was turn into a memorial dedicated to the World War II in 1992 and was officially opened by the Sultan of Kelantan in 1994. Items on exhibit include artifacts, photographs and other memorabilia of the war.



戦跡記念碑(レプリカ)
戦争博物館内にあった「戦跡記念碑」のレプリカです。
本物は、ここコタ・バルから約40Km離れた Macang にあるそうです。 私はこの本物を探しに現地まで行きましたが、見つけることができませんでした。
ちなみにこの記念碑の裏面には、以下の文字が刻まれていました。
那須部隊
激戦地
昭和十六年十二月十一日
十一時占領


上陸用のボート(?)
戦争博物館の裏庭の片隅にひっそりと置いてありました。
船体はかなりさびついて穴も開いていましたが、日本海軍旗が堂々と(?)はためいていました。


※戦争博物館の場所
この戦争博物館は、コタ・バルの中心部(バスターミナル)から北西方面に歩いて10分くらいのところにあります。(イスラム博物館の隣です。)
ガイドブック(地球の歩き方など)にも載っていますので、それを参照してください。

2014年 1月、コタバルの第二次世界大戦記念館(戦争博物館)再訪いたしました。
また、「コタバル平和時計塔」を探して回りました。
その時の写真を下のリンク先に掲載しました。
あわせてご覧ください。
写真は約150枚掲載しています。


(リンク先)
Go!Go!キョロちゃん (Vol.580)
「コタバルの平和時計塔や戦争博物館を訪ねて」
(マレーシア)

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上記の「戦跡記念碑」(レプリカ)の本物がMacang(マチャン)の町の
学校の校庭に展示してあるという情報を得たので、現地を訪れてみました。
その時の写真を下のリンク先に掲載しました。
あわせてご覧ください。


(リンク先)
Go!Go!キョロちゃん (Vol.1218)
【マチャン(Machang)戦跡巡り】
(5)日本軍が建立した「戦跡記念碑」石碑を訪ねて。
(マレーシア・クランタン州・マチャン)

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また、別の「戦跡記念碑」がクアラクライ(Kuala Krai)の博物館(ギャラリー)にも
展示してあるという情報を得たので、現地を訪れてみました。
その時の写真を下のリンク先に掲載しました。あわせてご覧ください。


(リンク先)
Go!Go!キョロちゃん (Vol.1212)
日本軍が建立した「戦跡記念碑」もあるクアラクライの博物館
「ギャラリー・クアラクライ(Galeri Kuala Krai/Gallery Kuala Krai)を訪ねて。
(マレーシア・クランタン州・クアラクライ)

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(B) サンダカン 壱九四五年五月廿七殉難華僑紀念碑
World War II Chinese Memorial in Sandakan

所在地 Jalan Istana, Sandakan, Sabah
[Map]


殉難華僑紀念碑
サンダカンの日本人墓地に行く途中で偶然発見しました。
紀念碑には以下の文字が刻まれていました。

壱九四五年五月廿七殉難華僑紀念碑

この時期は、日本が占領していた時期です。この静かないなか街でも多くの人たちが犠牲になったのでしょう・・・。
海が見渡せる美しいところにこの紀念碑は建っていました。
サンダカン 壱九四五年五月廿七殉難華僑紀念碑を再訪いたしました。
その時の写真を下のリンク先に掲載しました。
あわせてご覧ください。


(リンク先)
Go!Go!キョロちゃん (Vol.895)
「サンダカンの
「壱九四五年五月廿七殉難華僑紀念碑」
を訪ねて」(マレーシア・サンダカン)

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(C) クンダサン 戦争記念公園
Kundasang War Memorial

所在地 Kundasang, Sabah
[Map]

ボルネオ 死の行軍
1944年9月、戦局の悪化にともない、日本軍は当時サンダカンに収容していた連合国軍捕虜を、より危険の少ないキナバル山麓に移動させるべく、炎天下のラブック・ロード(サンダカン〜ラナウ間を結ぶ街道)を無理やり歩かせた。その距離は200Km以上。
ジャングルと湿地帯、豪雨による河川の氾濫、ワニ、大蛇、さそり、ヒルの恐怖、マラリアの発熱、赤痢による衰弱、下痢患者の続出、食料も欠乏し、飢餓状態が続く。
昼なお暗いジャングルの中を、夢遊病者のような群れが進んでいるような悲惨な行軍であった。
結局ジャングルに覆われた山道を抜けるのに11ヶ月を費やし、やっとの思いでキナバル山麓の村であるここクンダサンにたどり着いた。
出発時2400人いた捕虜も逃亡に成功した6人を除き、全員が死亡または銃殺されたとのこと。

この死の行軍の記憶を留めるために、ラナウ郊外のここ クンダサン村 に、戦争記念公園が作られた。
公園は、当時の捕虜たちの国籍にちなんで、イギリス、オーストラリア、ボルネオを代表する3つの区画に整備されている。



クンダサン戦争記念公園の正門
ここから入り、階段を上っていきます。
門の上には "KUNDASANG WAR MEMORIAL" と書かれていました。


公園の中庭
階段を上っていくと中庭に着きます。小道や池があります。


頂上からみた光景
戦争記念公園にもかかわらず、石碑や案内板などは設置していませんでした。単に庭が広がっているといった感じでした。
クンダサン 戦争記念公園を再訪いたしました。
その時の写真を下のリンク先に掲載しました。
あわせてご覧ください。


(リンク先)
Go!Go!キョロちゃん (Vol.888)
「クンダサン戦争記念公園を訪ねて
(Kundasang War Memorial Park)」
(マレーシア・サバ州・クンダサン)

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マレーシアをはじめ、日本や世界各地の日本人墓地、日本人慰霊碑、歴史に関するゆかりの場所などを訪問しました。その時の写真を下記リンク先に掲載しました。あわせてご覧ください。
(リンク先)
Go!Go!キョロちゃん (Vol.M-011)
日本や世界各地の日本人墓地・慰霊碑・日本人町跡・歴史遺構など
(まとめのページ・メニューページ)

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ご協力
以下のみなさんにいろいろとご協力いただきました。ありがとうございました。
クアラルンプール日本人会
ジョホール日本人会
ペナン日本人会
マラッカ日本人会
在マレーシア日本国大使館
参照資料
マレイシアの日本人墓地及び墓碑 −写真と記録で辿る先人の足跡−
編集 : マレイシア各地日本人会
監修・発行 : 在マレイシア日本国大使館


※各日本人墓地の説明(所在地、墓地開設時期、墓地概要)は、
この資料から引用させていただきました。
クアラルンプール日本人墓地 −写真と記録と改修事業−
発行 : クアラルンプール日本人会
地球の歩き方 「マレーシア・ブルネイ」
発行 : ダイヤモンドビッグ社
その他
ご協力いただきましたみなさん、ありがとうございました。

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