楽体INDEXへ


武術について書く主旨

 −−−この文は、武術の型について書く意図を記したものです。誤読されると害になりそうなので、クドクドと書きます。長いので読まなくてもけっこうですが、できれば主旨を理解してから、本文をみてもらいたいと思います。(本文のメニューは一番下にあります)

 古くから伝わる柔術や剣術は、「型」という稽古体系を持ち、その型を入門者に習わせ、一連の動作を身体に記憶させることで、師から弟子へ、やがて弟子が師となり、また師から弟子へと伝承してきたわけだ。これは概ねの物事にあてはまる世代を越えるための手法であり、正しいやり方だろう。すべてが視覚的に理解できる技術などならば、マニュアル化して言葉や図表あるいは画像によって、その技術を伝承することができる。
 単純な例をあげれば、工業製品の組み立てなどが言える。各部のパーツを集め、想定された手順の通りに並べたり重ねたり、つなげたりして、筐体に納め、カバーを閉じて、ネジを締めて、ハイできあがり。しかし、どんなにパーツが効率的に設計され、信頼度が高くなったとしても、組み立てる工程の各段階で、きっと何らかの情緒的な技が必要とされる。

 もっと卑近な例えをすれば、目玉焼きの作り方なども、一種の型になる。お母さんが娘に教える料理の入門編として、この単純素朴な料理がよく採用されているのではないかと思う。誰でも知っている通り、フライパンを熱し、油を敷き、火加減を調節して、卵をぽとんと割り落とす。ある家庭では、そこに何らかの調味を施すかも知れない。火は中火か弱火か、微妙な加減があるだろう。水を入れてフタをするやり方ならば、水の量にも、注ぐタイミングを判断するシグナルの見分け方にも、さまざまな方法があるのではないか。

 ふたつのまったく素朴な作業の例にあっても、各工程の段階に応じて、多様なコツのようなものがあり、多くは情緒的な、いわゆる感覚に頼らずには判断できないものだ。これが、刀鍛冶とか陶工などの職人の世界だったなら、その感覚の修得に何十年という時間を要するものだというのは合点のいくことではないか。
 マニュファクチャリングは、このような感覚的な技の部分もかなりの程度まで規格化・自動化することに成功したから、今日のような快適で便利な工業化、電化ができたわけだ。

 ところが、どんな物でもきっと何かしらの瑕疵が残っているもので、完璧と言うことはまずない。

 コンピューターなどはその代表例であり、ハードもソフトも日々進化していると大騒ぎしてきたが、それが本当に進化だったのか、それとも、消費者は瑕疵だらけの半製品を手にして喜んでいたのか、いずれとも判断できない。もちろん非常に複雑な物であればあるほど、完璧に近づくのに長い時間を必要とするし、ここまできたら製品として市場に流す価値があるという判断をどう下すかということも難しい問題ではある。
 こういう話が本筋ではないが、多くの物事は常に半製品であり、その製品化の工程のあらゆる段階に「感覚的な技」が介在しているはずだ。
 どんな仕事であれ、そういう技を発見し、身につけ、多くの人々に提供することが、本質だったのだろう。「型」は、その「技」を発見する手引きに違いない。

 では武術、あるいは武道と呼ばれるものはどうだろうか。
 とりわけ「型稽古」を中心に行う、剣術、居合い、合気道、古流柔術、古流拳法などの「型」は、製品として完璧なのかどうか。もちろん完璧などと言うことは、ほとんどあり得ないという立場に立った上での問いだと言うことは断っておこう。
 型はマニュアルであり、技術やサービスは、マニュアルに則って行うことで、ある程度の水準を維持できる。これは武道・武術にも当て嵌まると思うけれど、決定的に異なる面がある。

 それは、感覚の重さ。私は合気がなんなのか知らないが、これが深く関わると感じている。

 産業における技術やサービスは、いわゆる心が籠もっていなくても、それなりの形式を押さえておくことで、相手は納得してくれる。本来はそれではダメなはずだけど、今日の社会では、しょうがない。ところが、武道・武術の場合、本当の真剣勝負や護身、乱闘を想定して考えると、相手は諦めて納得してくれたりしない。ただ型通りに動いたところで、相手を納得させる技を極めるのは、まず無理なことだろう。では、どうしたらいいのか。これが、私の「型」に対する疑問の始まりだった。
 一時は型をないがしろにする方向に傾きかけたが、技と型との関連を考える内に、「型」を残した先人たちの知恵の一端に触れられたような気がした。そのことを、語りたいのだ。

 でも、私は形式張った武道家臭い語り口は好きじゃない。表現としてそれっぽいものは、ちょっと怪しい、と文章書きの経験からかなり強く実感している。だから、軽くやる。

 そもそも型は軽いものではないのか、とも感じる。奥義を究めた達人が、奥義なんて型だけで得られるものじゃないとわかりきっていたはずなのに、あえて型を残したのは何故か。生計を立てるためという意味はもちろん強かったに違いないが、私は達人たちの遊び心を感じる。

「この公案がおまえには解るかな?」

 なんて草葉の陰でニヤニヤしている気がしてならない。
 そういう意味では、型はけっして軽くはなく重いのだけど、重く厳しいばかりのものとはどうしても思えない。

 きっと達人たちは奥義を型に残したのだろうとは思う。けれど、それは漫然と型をやったところで理解できる類のものではないのではないか。理解するためには、型の中に「技」を見いださなければならないのだろう。

 技を身につけるには達人から教わるのが近道に違いない。たまたま、技を体現している達人と思えた塩田剛三先生の流れを汲む道場に入門したので、熱心に稽古してみた。しかし、型を幾らやっても、なかなか技という面を実感できなかった。色々な武道家、古武術家、中国拳法、唐手、少林寺拳法、強健術などから整体、操体なども文書で調べ、幾つかは実践して技を探ってみた。直接指導をしてもらうべきか考えてみたけれど、著作を読んだりビデオを見た限りでは、暗中模索は変わらないようだと判断し、独りでのんびり研究することにした。

 まだ途中過程に過ぎないが、「型」と「技」の関係は、幾らか見えてきた。
 見えてきたというのは、技に着目しなければ、型は技になり得ない、という程度のことに過ぎないが。これは、けれど、現実社会の姿とよく似ている。激しすぎる経済の潮流に煽られて、あまりにも多くの「技」を私たちの時代は、あたかも水洗トイレみたいに惜しげもなくジャーッと流し去ってしまっているのではないか、と。流されたのが排泄物なら取り戻したくはないけど、「技」はなんとしても取り返したい。というか、流失を阻止したい。

 兎に角、せっかく型稽古に巡り会えたのだから、もっと味わいたい。

 技などという高級な話は、本来、達人のどなたかが語るべきことだろうが、自分自身わかりやすい話に触れたことがないし、稽古途上でなければ感覚し得ないこともあるはずだから、あえて自分で型と技の問題に手をつけ、どなたかの役に立つかどうか知らないが、公開しようと考えたわけだ。
 本文中で使っている「感覚」という言葉は、芸術的センスの話ではなく、体のセンサー的機能の意味がほとんど。体が楽であればあるほど、センサーが敏感になるようだ。

 ここの記述は、合気道の型稽古を通じ、自分の体と頭で検証し、工夫し実験した疑問や着想、感覚を題材にしている。書く意図は、「型」の確実性や不確実性を証明することではなく、あくまでも「型」が秘めているに違いない「技」に目をつけるための考え方見方の一例を示すこと。それ以外の意図は皆無という点はお断りしておこう。


楽体INDEXへ

一カ条 二カ条 呼吸法
このページTOPへ ◇