パズルとしての武術
自分の中でもっとも古い合気道関連の資料というと、鶴山晃瑞という人が著した「図解コーチ合気道(成美堂出版)」と題された文庫があり、昭和49年3月20日初版発行となっているので、15〜16歳の時、ちょうど剣道への関心が失せていった頃に買ったらしい。この本は、合気道と題されているが、改めて見ると内容は大東流で、植芝盛平翁が創始した合気道とは異なっていた。
専門書など縁のない生活をしていた中で、これを買っていたのだから、かなり関心があったのだろう。しかし結局合気道をやらなかったのは、周りの人たちが合気道は女がやる護身術だといっていたためだった。
今僕が稽古しているのは、養神館系の道場である。養神館の系統は、技に入る前に、構えや基本動作を練習する。
構えとは、その呼称を耳にすると、いかにも戦闘に入る時の身構えと思え、実際、初めてやった時はそういうものなのだと信じていた。しかし、しばらくやっている内に、構えの稽古は、身構えの稽古ではないと感じるようになった。
構えという呼称ではあるが、技を施すにあたって構えるためではなく、また心の備えとしての構えでもなく、体のあり方を学ぶものだなと思うようになった。そんなこと、わかっていそうなものだけど、体の中の出来事なんだと感覚したのは初めてだった。この時、型稽古とは人体を使ったパズルのようであり、体で解を出すための公案を求めているのだと感じ、俄に面白くなってきた。
構えについての私見
合気道には構えがない、と「図解コーチ合気道」には書いてあった。
合気道を始めてまず驚いたのは、構えがあった点だった。大東流や合気会には特に構えというものがないらしい(あるのかもしれないけど)。
この構えというのは、剣道でいう青眼の構えの変形になっている。青眼では剣の切っ先を敵の喉元に向ける場合が多いが、養神館合気道の構えでは手刀の先を相手喉元に向けるため、やや手が高くなる。また、足は剣道などでは鐘木足といって嫌う足先を左右に開いた形になる。体重の配分は、前六分、後ろ四分にする。初めの内はこの状態で静止していることすら難しい。
構えるというのは善し悪しがあり、天地自然の動きの会得を本願とする合気道では構えてはいけないのではないかとも思うが、あるものはしょうがない。僕の参加する道場でも、稽古はまず構えからはじまる。
当初、合気道には構えがないと思っていたので、何故こんなことするんだろうと思っていたが、稽古を続けるうちに、この構えが重要な意味を持っているのではないかと感じられるようになった。
構えを言葉面のままに構えとして受け取ってしまうと、問題があるかもしれない。不意に発生する闘いに際して、いちいち構えている閑などないだろう。そんなことは塩田剛三先生にはわかりきっていたはずだ。では、なぜ構えがあるのか。まず、ここをよく考えてみた。
構えとは構えではない
自分なりに出した結論は、構えとは構えではない、ということだった。
剣の構えも同じように疑問を感じるべきかもしれない。いきなり斬りつけてきた相手に、どうして型通りの構えなどしていられるだろう。居合いをやっていると、なおさら感じる。青眼だ八相だ上段だ下段だ脇構えだというけれど、大人数が入り乱れる戦場ではなかなかかっこよく構えてもいられないに違いない。制定居合い十本目・四方切りの最後の斬り付けでは、その瞬前に脇構えとなる。こうすると敵から刀が見えないという。しかし斬り付けは、上段に振りかぶって行う。脇構えから袈裟に切り上る方が早そうな気もする。手の内で剣を回すように斬りつけてもいいかもしれない。一刀両断とはいかないけど、ダメージは与えられるだろう。いわゆる型が求める構えを外れる流れが頭の中に次々湧き起こってくる。もちろん型が想定しているのは、上段に振りかぶる方がいい状況のはずだが。
こんなことをあれこれ考えていると、構えという概念がちょっと変わった。
構えとは、普遍的な体の有り様=姿勢を学ぶ型というのが、現在の結論である。合気でも居合でも、動作の経過や結果が構えの延長上にある。これから始まることに対して構えるのではない。平常からの体の有り様が、構えなのだろう。構えの時にはきちんと構えているのに、型に入った途端に姿勢が崩れる人が多い。それを戒めるのが、構えという型なのだろう。