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兵法書に見る武術の初歩
当然ながら、技について書物からもヒントをもらう。武術関係も読むが、そんなに多くはなく、雑多なものからいただく。例えば立ち方や呼吸について、狂言の本から大きなヒントをもらった。科学や物理系の本にも教えてもらう。遊びも無縁ではなく、剣を振る腕の感覚にテンカラ釣りの竿の操作に近いものを感じる。とはいえ、やはり武術関係の本は具体的なので深く考えさせてくれる。今も時々開くのは、大東流合気武術の達人として名高い佐川幸義氏の伝記的な『透明な力』と、塩田剛三先生の『合気道修行』。この二冊は流し読んではもったいない。武術やスポーツでよく使われる表現はわかりにくい。それが体の感覚であるがために、頭だけでは解釈できない。言葉をよくよく玩味する必要があるだろう。
ちょっと長くなるけれど、言葉からヒントを得る僕なりの読み方を記してみようと思う。試しに、武蔵の五輪書に比べてあまり話題にならないが、二大兵法書のひとつで名高い柳生宗矩の著作とされる「柳生新陰流兵法家伝書」を見てみる。ただし、古書はありのままに味わうべきだという本居宣長などの考えに僕も共感するので、現代的解釈はあまりしないように注意するが、一部曲解する畏れはあるかもしれない。
その導入、「進履橋/新陰流兵法の書」の出だしに「三学」ということが記され、「身構」「手足」「太刀」が上げられ、その三つが兵法を学ぶ入り口だとしている。そして三学を習うための要点として、「五ヶの習い」ということが示されている。
一、身を一重になすべき事
一、敵の拳を我肩にくらぶべき事
一、我が拳を楯につくべき事
一、左の肱を延ばすべき事
一、先の膝に身をもたせ、後の膝をのばすべき事
例えば「身を一重に」というが、この「一重」ということからして意味を把握しがたい。字義は「重ならないこと」となるが、身(体)が何に対して重ならないようにすべきなのかが書かれていない。色々考え、色々試してみる必要があるだろう。体が重ならない、だぶらないようにするとはどういうことなのか。解釈は色々あると思うが、僕は稽古の体感に照らしてみて、重ならないというよりも、一体というほどの意味かなと感じている。平素は全体でひとつだと思っている自分の体が、実はバラバラであり、どうにも不器用で融通のきかないやつだという実感は、武術の動きを試していれば、きっと感じられるだろう。一度全身を分解して再構築してみる必要を感じざるを得なくなる。例えば、合気道の基本動作の体の変更の(一)なら、脚の動きに気を取られると、手がずれる。手に気を取られれば、脚が動かない。これを一度、全部バラバラに解体して、それぞれの動きをひとつとして組み直してやってみると、次第にすべてがひとつにまとまってくる。あ、これが稽古か、と感じる。
「敵の拳を」という項はさらに解釈しにくいが、「くらぶ」とは古語辞典によれば、比べる、競う、また親しく付き合う(英語のClubに似た意があるのも面白い)という意がある。これは敵との関係を測る尺度、センサーのひとつとしていっているのかとも思うが、まだわからない。次の「我が拳を楯につく」というのもわからないが、楯とはその字からは防御の道具を指すらしいので、刀の柄を握った自分の拳を楯のように意識しろということだろうか。
「左の肱を延ばす」というのは、力を入れてピンと伸ばすのではなく、曲げるなという程に受けとった。これは手の内を活かすためだと感じている。手の内について、多くの人が手の握り方について考えるようだけど、肩から先の腕全体の状態も重要ではないかと感じている。僕は試し斬りをしたことはないが、腕の状態は斬りの刃筋や強さに影響すると思う。合気道にも、この腕の使い方同様の技術が要求されていると感じる。
最後の膝の要点は、養神館合気道の構えとほぼ共通するといっていいだろう。
次いで兵法家伝書では、「三学の初手 是はかまえ也。」という文が続く。以下引用する。
−−初手を車輪と云ふ。是は太刀の構。まわるを以て、車と名付けたり。脇構也。左の肩をきらせて、きるに随って、まわりて勝つ也。ひきくかまゆべし。惣別(そうべつ:概してというほどの意)かまえは敵にきられぬ用心なり。城郭をかまえ、堀をほり、敵をよせぬ心持也。敵をきるにはあらず。卒ジ(そつじ:にわかに、軽率にというような意)にしかけずして、手前をかまえて、敵にきられぬやうにすべし。故に先ず構をはじめとする也。−−
※一部古い漢字はひらき、()内注釈は僕が付加した。
この後に、三学の初手として「一刀両断」「斬釘セツ鉄」「半開半向」「右旋左転」「長短一味」という五つの型が示されている。これらは原典では「三学円太刀」として絵図入りの目録に動作が記されている。その型の基本は体を替えることのようなので、「車」といったのだろう。
ここに書かれているのは新陰流に入門したものが先ず学ぶべきことの概略だが、これはそのまま柔術や居合にも通じる面が多いと思う。
構えはここでは「敵をよせぬ心持」として心理的な面が強調されている。体術とは少し考え方が異なるように思われるが、核を考えれば同じだろう。型の目録を見れば、構えの形はあまり詳しく記されないし、体の形はどんどん変化していく。それもそのはずで相手はこちらを斬ろうと色々やってくるのだから、相対として変化せざるを得ない。一刀両断を見れば、敵の青眼に対して脇構えにするが、足はするすると変化する。手も脇から振りかぶれば上段になる、下段から右か左に引き上げれば八相になるが、構えの呼称はどうでもいいことだろう。変化の動機が敵の動きとすると、構えは流動的なものとして感じられてくるのではないか。構えの本質は、外見の形以上に、敵にきられぬ用心、つまり感覚、目付、心、緩み、バランスなのだろう。敵の拳を我肩にくらぶ、我が拳を楯につくというのも用心の技と感じる所以である。
体の操法として重要なのは、「きらせて、きるに随って、まわりて勝つ」とか「ひきくかまゆべし」とか「卒ジにしかけずして、手前をかまえて、敵にきられぬやうに」という点だろう。これらは居合にも合気にも重要な点だろう。敵に斬らせて、斬るにしたがって、回るというが、言葉で書くように簡単なことではない。これは合気道の基本動作と制定居合受け流しの話で書いたが、ここに示された「まわりて」という動作の解釈は重要だと思う。僕は、いなすにしろ受け流すにしろ、剣同士が触れていてもいなくても、自ら回るのではなく、相手の力によって回してもらうべきだと考える。「敵にきられぬ」ためには、こうする外にないと感じている。再び居合の受け流しについていえば、敵の斬りを右手一本で抜き上げた刀で受ければ、敵は体勢を崩して流されるのだというけれど、そんなことはあり得ない。敵の重心がずんと落ちてくるような斬り付けが、そんな動作で受け流せるわけがないとしか思えない。とすれば敵の勢いを受け、勢いを貰って体を替えるしかない。と、考えるわけだ。
「ひきくかまゆべし」というのは、低く構えるべしということだろう。ここでいう「かまゆ」というのは、技を施す過程における体の有り様だろう。「手前をかまえて」というのも、心身の状態を指すのだろう。構えとは、自分の心身を常にどのようにも動ける状態にしておくことかと思う。
ここでさわりだけ見た「柳生新陰流兵法家伝書」には、さらに様々な兵法の考え方や技術、学ぶ姿勢などが記されている。多くは柳生宗矩が沢庵禅師の指導の元に兵法の心の面や政治的な側面を重視して著したようだが、技を考える上で参考になる記述も随所にある。もっとも武術は口伝によることが多いためあまり詳細ではなく、秘するべきという考え方も明記されている。それでも学びの姿勢を考えるには役に立つ。長くなったついでに、参考までに習いの姿勢に触れた一節を引用しておく。
−− 大学(儒教の経書のこと)に、致知格物と云う事あり。致はつくすと云う義也。知をつくすは、凡そ世間に人の知ると云うほどの事、ありとあらゆる事の理をみなしりつくして、しらずと云う事なきを、知を致(つく)すと云う也。又格物とは、事をつくすとよめり。その事々の道理をしりつくせば、その事々皆しらずと云う事なく、せずと云う事なき也。<中略>さて、よく習いをつくせば、ならひの数々胸になく成りて、何心もなき所、物(こと)を格(つく)すの心也。様々の習いをつくして、習稽古の修行、功つもりぬれば、手足身に所作はありて心になくなり、習いをはなれて習いにたがわず、何事もするわざ自由也。−−
型稽古とは、こういうことなのだろう。
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