型という稽古方法
型は実戦的ではないという考えは、一般的である。例えば最近、胸ぐらを掴まれた時に二カ条が使えるかというのを試した。使えると思っている人がけっこういるようだが、実際に胸ぐらを掴まれて二カ条が決められるものかどうか、試してみるといい。体験からいって、ほとんどの人は相手との関係性を関知できず、技に入れない。掴まれた瞬間に当て身を入れればいいという人もいるが、重心を操作できない当て身はあまり効力がないだろう。
じゃあ、型稽古をしてても役に立たないじゃないか、というのは性急に過ぎる。胸ぐらを掴まれたとき、当て身も使えないならどうするべきなのか、すべては型に示されているに違いない。しかし型は技ではないと思う。もちろん型は技の宝庫だと思うけれど。
公案としての型
型というのは、禅でいうところの公案のようなものだと思っている。型を行いつつ、謎を発見し、ひとつひとつ紐解いていく。さらに如何にすれば技を使えるのか工夫する。これが型稽古の意味ではないかと、今のところ考えている。こういう考え方をすると、正面打ち一カ条の(一)というシンプルな型も、奥深い難問としてたっぷり楽しめる。
機先を制して仕手が正面に打ち込むが、合気とは後の先が基本だとすると、機先を制するのはなぜかという疑問が生ずる。相手と正面で打ち合う間合いにも疑問が出てくる。その際の、左右の手の有り様、相手の打ち込みを制する技術とは何なのか。その技術を使うための体の有り様。上手く機先を制して相手を崩せたとして、切り落とす際の体の操作はいかにあるべきなのか。型全体に渡って分析して考察していくと、きりがないくらい疑問が湧いてくる。
ひとつ解決したとして、解決できたばかりの方法を訓練していくと、すぐにまたその方法に対してすら別の疑問が生じてきたりする。とにかくきりがない。もし、クイズとかパズルが好きな人ならば、武術の型稽古はかなり挑戦しがいがあるだろうと思う。脳の中だけではなく、全身の神経系や筋肉や骨格まで相手にするパズルだから、ことはやっかいである。しかも、パズルが解けたからといって、使えるわけではない。ある技についての本当の稽古は、やっと、そこからはじまるわけだ。
教え、教わる
細かいことを人に教えている時、武術の奥深さを思い知ることがある。僕はまだまだ経験が浅いが、後進にアドバイスする機会が多くある。今時は武術で命を取られることもないし、僕らのレベルではお互いに気づいたことを教えあって視野を広げた方がいいと思う。現に教えていると唐突に新しい視野が開けてくることがある。
たいていは、自分が気づいたことに対する新たな疑問や別方向の視野である。教えている間に変わってしまうこともある。では、教わった方はいい迷惑ではないかと思われるかもしれない。でも、誰かの稽古の過程を追体験するのもあながちムダではないだろうと思う。
構えひとつとっても、完成形はほど遠いのだろう。今も、足の底では、重心が行ったり来たりしている。わからないことは無数にある。それらを考えるためにも、人に教えるのは役に立つ。自分の体を客観的に見られたりするからだ。
子供たちを教える時、膝行を利用して相撲大会をよくやる。これは膝行の意味と効力を自分なりに分析し、工夫した練習方法だ。正しく膝行し、相手との関係性が把握でき、重心が動かせると、あまり力を使わずに相手を転がすことができる。これは下手すると、大人でも子供に揺さぶられたりする。