本日のカルチャー・クラブなもの(2003年11月分)


2003/11/29
100% Boyによると、ボーイ・ジョージはThe Twinとして、12/7にNYのThe Coral Roomsというところに出演するとのことです。The Twinとしての最新作も披露されるようです。もっとも、まだ詳細な情報はあがってません。タブーにも出演して、さらにライブもやるようでジョージったらほんとに元気です。


2003/11/27
ネットサーフィンで見つけました。カルチャー・クラブおよびボーイ・ジョージの曲について、デビュー当時から最近のものまで分析してます。細かい分析に思わずうなってしまうことうけあいでしょう。(書かれた方はプロの作家の方でした。さすがです〜。)

“ゲイのラヴ・ソング”としてのカルチャー・クラブ

トップページはこちら


2003/11/25
11/24の続き

悪質なマスコミが、タブーのNY版は母国をろ過したなんて言ってるそうだ。でも、レポーターが必ずしも正しいわけじゃない。大手の新聞は初日の夜の後批判的だったけど、地元紙やTVではすごい応援があったよ。

我々の売り上げは8%上がったし、お客さんは暖かくて熱狂的なんだ。多くのゲイのニューヨーカーは批評がホモ嫌いだと感じられるから、このことは彼らにとって政治問題になってしまった。ウェブサイトはマスコミの報道を議論するクイーンたちのわめきであふれかえっている。うーん、ぼくがいまだに騒ぎを起こせるんだってわかったのはいいことだね。でも、一たび舞台にあがればいつもの通りそれはお仕事なんだよ。

ぼくがニュー・アルバムをリリースするたび、批評家たちは「ああ、カーマは気まぐれも君は完璧さも入ってない」って言うんだよ。当時、これらの歌がこき下ろされてたってことを忘れちゃってるんだ。

人の仕事の中でも最悪のものが成功するってことは、時間が立証してくれると思うんだ。Short memory syndrome(健忘症?)かな?でなかったら何だろう?


2003/11/24
11/23のボーイ・ジョージのコラムから。ネタ元は100% Boyから。

NYの若者文化は窒息してる
NYのTHE Limelightというクラブは、ロンドンのShaftesburyアベニューにある同じ名前のクラブみたいに古い教会の中にある。ぼくは両方ともに足しげく通ったけれど、いつも教会でクラビングってのは変な気がしてた。おそらくはカトリックの罪悪感なのだろうけれど、そこで起きてることを知ってたら、もっと罪深い気分だったろうね。

NYのLimelightはさらに悪名高いんだ。というのも、80年代そこは「クラブキッド」で人殺しのMichael Aligがドラッグをやって堕落したパーティーを開いてたんだから。それはAligがAngelというドラッグ・ディーラーを殺したかどで逮捕されて突然終わりを迎えた。Aligの興亡はParty Monsterというマコーレ・カルキン主役の映画に記録されている。

ある意味、Aligの逮捕はNYのクラブ・カルチャーを殺した、もしくは、少なくともクラブ・カルチャーのエキゾティックな面を殺した。というのもおかしく見える奴は誰でも、汚されてしまったからだ。それはNYの市長のジュリアーニがマンハッタンをよくしようと決意したころに起きた。長らく、代わりのクラブ・カルチャーは地下にもぐってしまい、多くの小さなゲイバーやパブでのダンスを禁止する法律があったのだ。

先週ぼくはLimelightに行った、というか行こうとしたんだ。フォトグラファーのPatrickの出版を祝うためのパーティーのためにね。80年代のナイトライフについてのMcMullanの本なんだよ。改装されて名前もAvalonになってた。でも、入り口で対応された後は、暗闇が地下室からいまだに発してるのは明らかだった。

大きくたくましい東欧の悪漢がロープのそばに立ち、Cruftsの犬のようにぼくを扱ったんだ。で、ぼくがもうドアの近くにいるっていうのに赤いカーペットの沿って歩いてるって言い張るんだ。ぼくは古い友人のJohnny DynellとDJのために来たんだ。しかも無料で、それもタブー出演のあとにやるつもりだったんだ。

最終的に女性が現れてぼくたちは入れてもらった。でも、ぼくたちは更なる攻撃を受けてしまったので、ぼくは出て行くことに決めた。ぼくは攻撃的な用心棒の手に任せているクラブにいることには興味がない。もし、Avalonがこれを新しいお客をひきつける方法であると考えてるなら、お客に安心感と敬意を持ってもらえるようにすべきだ。

まずは頭からラテックスの液がたれてるような奴(ジョージ自身のことらしい…)はセキュリティを脅かす奴じゃないことがわかるくらい頭がよくなるべきだよ。Avalon唯一のセキュリティに対する脅威はセキュリティだね。

それから招いたゲストを中に連れて行く人を用意して、彼らを悩ませることを避けさせるべきだよ。友人のJohnnyをがっかりさせたのは残念だったけど、彼にはなぜかを説明するメッセージを残したんだ。

おそらくMichael Aligはクラブ内部に悪のエネルギーを残したか、教会がナイトクラブにあう場所じゃないんだろうね。ぼくは小さい会場でそんな攻撃にあうことはめったにない。でもNYの用心棒は概して魅力のない奴らなんだ。アメリカの法が21歳未満には誰にでも酒を禁じ、IDを持ち歩くことを強いる間は若者文化が花咲くチャンスはないという悲しい事実に戻ることになる。

実はアメリカは、きっと自分たちが気づいてる以上にロシアと共通点があるんだろうね。

(続く)


2003/11/23
私は持ってないのですが、蘇れ!ピクチャーレコードというサイトで、カルチャー・クラブのピクチャーレコードを紹介していました。12インチのレコードには、CDにはない迫力があります。紹介されてるのはColour By NumbersWaking Up With The House On Fireです。


2003/11/19
100% BoyのGeorge in New YorkのコーナーにタブーのプロモCDの紹介がされていました。ロンドンセッションと書いてあるので、ロンドン公演のメンバーによる作品と思われます。曲目は以下の通りです。

Everything Taboo
Stranger In This World
Touched By The Hands Of Cool
Gimme A Freak
Out Of Fashion(Acoustic)
Out Of Fashion Remix

ジャケットには美しいジョージが写っています。劇場に行ったニュー・ヨーカーが、今のジョージを見てのけぞらないことをちょっと祈ったりしてます。


2003/11/17
11/16の続き

政治家は我々を戦争へと導き、批評家は悪趣味へと導く。でも、我々はただ彼らにそうさせる力を与えてることを責められてしまうばかりなんだ。タブーへの主な攻撃は我々のプロデューサーのロージーへの嫌悪に集まってるみたいなんだ。彼女は長年ブロードウェイですさまじいチャンピオンで、自分のトーク番組で絶賛することでたくさんのショーをヒットさせてきたんだ。

今、コミュニティは彼女に向いているけど、ぼくはその中でも最高の評論家に信頼を置くつもりなんだ。それは、ぼくのママなんだよ。「あなたをすごく誇りに思うわ」って彼女は初日の後で言ったんだ。信じて、彼女ははっきり言うんだよ。

痛烈な批評の陰で、ちょっとした提案がされてたんだ。ぼくが音楽でトニー賞の候補になるかも…なんてね。チケットの売れ行きは批評があった後、これまでの最高だったんだ。だから、Riedel氏が「私が正しかった」って言うチャンスはおあずけになるだろうね。


2003/11/16
11/16のボーイ・ジョージのコラムから。ネタ元は100% Boyから。

批評家のことは忘れて、ぼくのママのいうことを聞いて
人生においていくつかのことは予測可能だ。ぼくが自分の目の周りのしわが鬼婆のしわみたいになるまでアイライナーをつけることは事実だろう。そして、ぼくはいつも自分をマスを身にまとったマトンのように言われてしまう服に惹かれるんだ。ぼくは、人は優雅に年を取るべきという権威に指を突きつけるような試みをすべく、ドレスアップし続けるだろう。ぼくはずっと前に認識したんだ、地獄に落ちるつもりなら、ハイヒールで落ちる方がいいってね。

ぼくは初期のころに、自分の性の状況を公言するようにいつも求められていたんだ。そして、今なんで多くの有名人がクローゼットで縮こまってるかわかるよ。新しい思想のジャーナリストでさえ、性的描写の自由を擁護せよと主張してるのに、人があんまりゲイになりだすと背を向けてしまうんだ。

一度クローゼットから出てくると、議論をやめ、代わりにヒステリック発作を起こしてしまうのだ。握りこぶしはハンドバッグに変わってしまう。虐待の日々から身を守るためになされた意地悪なユーモアはうんざりするが、いまだ必要なのだ。特に、舞台芸術に踏み込むほどおろかなときにはね。

こんな知恵はぼくにとってはニュースではないんだよ。ぼくはthe New Yorkのタブーのレビューを読んだけど、残念ながら意外性がなかったね。ある見出しは「タブーにブー」だった。でも、お客さんは立ち上がって喝采してくれたよ、魚は投げてこなかったね。

ぼくはみんなに感謝しないとね。だってぼくはどうも何とか自分のリー・バウリー役で、昔のボーイ・ジョージから取り去られた意地悪な切れ味を伝えられたみたいだからね。彼の美しく構成されたコスチュームは、ハロウィンのドラッグ・クイーンのパレードで見られるかもしれない類のものとして描かれてるんだ。近づいてよく見ると、彼の作品がどんなに上手かわかるだろう。でも細かいとこまで誰が気にするかな?

舞台後のパーティーでぼくはMichael Riedelと顔を付き合わせたよ。彼はぼくの舞台をNYポストで何週間も叩いたんだ。彼はちょっと神経質に見えたけど、パーティーにどうにか忍び込んだのが誇らしげだった。プロデューサーのロージー・オドネルに止められてたのにね。「君はすばらしい曲を書いたね」って彼がぼくに言ってくるから、聞いてやったよ。「何で紙面では曲のことはOKなんて言うんだ」ってね。だって明らかに違いがあるからさ。彼は説明しなかったけど、「ああ、それがショウビズのナンセンスなんだよ。」って言ったよ。おそらくそうなんだろうね。Riedel氏は今度は彼のケーブルTVの番組で、しゃれ合戦をすべくぼくを呼んでくれた。ぼくは彼の申し出を受けようと思うけど、彼の勘違いの自尊心を元気にするだけなんじゃないかって心配なんだ。

ぼくのRiedelへの手紙を読んだ別のジャーナリストは、ぼくのことを批判を聞き入れないブルドッグと呼んだ。そういうことがぼくをいらいらさせることは否定しないけど、いらいらはそうやって言うことがすごく冷酷だし、ポイントを欠いてるからなんだよ。

最近ブロードウェイで開演されるミュージカルはこき下ろされている。どれもいちいちそんなにひどくなりうるの?もしそうなら、彼らはどうして全部の劇場を殴り倒して、駐車場にしないんだろうね。

(続く)


2003/11/11
11/10の続き

POP Bitchというインターネットのゴシップサービスでは、我々の生活を変えることなんてない有名人についてのあれこれをいっぱい教えてくれるんだけど、そこがぼくのGaydarでのプロフィールを出してくれちゃったんだ。Gaydarってのは、ほかのゲイの男性と友情や何やらを求めて出会うのに、加入するサイトなんだ。ぼくは彼らが意地悪すべくそうしたんだと思う。でも実際は逆の効果をもたらしたんだ。実は彼らには感謝したいんだよね。だって、サインアップしてから、あんまり気にかけてなかったんだもん。「何で君はテレビで自殺して、不死身にならないの?」みたいな意地悪な反応は1個か2個くらいしかなかったんだ。ほとんどのメッセージは優しくて、思わせぶりだったよ。

Gaydarに関しては、メッセージが気に入らなければ、クリックしてしまえばおしまいなんだ。現実世界で、求めてきた人にそれができたらねぇ。Pop Bitchはぼくが困ってると確信してるんじゃないかな。でも、そうなら何でぼくはそこのサイトにいるんだろう?ぼくのクローゼットのドアは開きっぱなしで、実質そこのちょうつがいは外れてしまってる。人がログオンするとき、ぼくが誰かなんて疑いようがないんだけれど、いまだに「あんたボーイ・ジョージなの?」って言ってくるバカはいるんだ。ぼくは新しい顔ができるまで、この顔を使ってるだけなんだから。

実は「Pop Bitch今週のお薦め」に先駆けて、ぼくは自分のプロフィールを変えたんだ。(このままじゃ)他の誰にも得にならないからね。だってぼくは自分を、だんだん好きになってもらう奴なんだってわかってるからさ。


2003/11/10
11/9のボーイ・ジョージのコラムから。ネタ元は100% Boyから。

タブー試演中の舞台裏のドラマ
ドラマ自体が演劇で不可欠であると言う考えはそんなにばかなコンセプトではない。タブーはNYではまだ開演になってないのに、ナイフ(うーん、ペンとも言う)はすでに出てきている。我々の中の誰かは、ゴシップ好きでちょっと金を受け取って、騒ぎのネタでメディアをもてあそんでるんだ。NYのプロダクションが正当でない方法でまとめられてて、ときにぼくたちがみんな絶望的な気分になってたのは本当だよ。でも、たいていの舞台には頂点もどん底もあるものだよ。

NYポストの演劇評論家のMichael Riedelは舞台に対して復讐心があるみたいで、1ページまるまるいわゆる意見の食い違いと、ぼくとプロデューサーのロージー・オドネルとの間の仕切りに対する苦々しいバトルの話で埋めたんだ。

水曜日には最悪のプレスを入手してて、キャストたちはそれに対してすっかり否定的な気分だったみたいだ。でも、ひとたび舞台に上がってキャラクターに入ると、仕事に戻って、最高の舞台を演じたよ。ぼくたちはプレビュー中だから、シーンもせりふもCherがコンサートで衣装を着替えるよりも頻繁に変更があるってことさ。ある晩はあったものが、その次の晩にはでて来なくなるかもしれないんだよ。もちろん、否定的な批評もあるし、演劇評論家は最悪になりうる。尊大な権威に包まれた生意気な要素があるからね。
劇場関係者は自分たちはそのために何がベストかわかってると強く感じてるし、部外者に怒ってるんだ。ロンドンで我々が評論家から受けた反応は熱狂的なものから、嫌悪感いっぱいのものまであった。ここNYではすごく陰謀的で、キャストのメンバーがプレスやほかのディレクターと秘密のミーティングを開いてるんじゃないかってくらいなんだ。でも、ここ2日間のタブーでは、NYは夢みたいに連帯してくれて、ぼくもいい気分なんだ。

彼の最近の中傷的レポートのあとで、ぼくがNYポストに送った手紙に対するRiedel氏の反応を読むと、ぼくたちはただ彼のうぬぼれを支持するためにここにいるんだってことがわかるよ。劇場の外の陰謀にはいっぱい紆余曲折があるけど、予想がつくし、注目に値しないのだ。最後の言葉は毎晩来てくれて、立ち上がって理解を示してくれるお客さんに向けないとね。このあらゆる否定的なもの士気を下げてしまう。でも、今の仕事に集中しないといけないし、ずっと少ないお金のために嫌いな仕事を一生懸命やる人たちがいることも忘れてはいけないんだよ。

(続く)


2003/11/05
ロンドンで無料で配られているMETROという新聞によると、ボーイ・ジョージはNYのメトロポリタン美術館で行われたBravehearts:Men In Skirts(11/4-8)というイベントの初日にゲストとして出たそうです。このイベントでは、女だけがスカートをはいてきたんじゃないということを示すそうです。

Bravehearts:Men In Skirtsのサイト(でもジョージの写真はなかったです。)


2003/11/03
11/2の続き

ぼくは気がつくと、いわゆる完璧によい関係を持ってるようにみえるくせに、「うまくいってない」と言い続ける友人にだんだんいらいらしてきてるんだ。ぼくが人間関係に巻き込まれてないときは、自分がついにバラの花びらの上を歩くような感情の高みに達したと自らをごまかすんだ。醜い事実は、愛がその頭をもたげるやいなや、ぼくは不安定で、斧を振り回すおかしなやつになってしまうということだ。一人身の利点はより多くのことをやってもらえたり、すばらしいアドバイスを渦中の人にするようになるっていうことだ。

ぼくの友人との会話は実際決して決議には至らないし、結局話が彼女は自分のオフィスのハロウィン・パーティーに何を着ていくべきかになってしまうんだ。ぼくはその分野ではずっといいアドバイスがあって、そのことはぼくの現在のこだわりを、しばし止めさせてしまったんだよ。ぼくに近い人たちは誰も、なぜぼくがタブーの舞台裏にいる裏方のひとりをそんなに気に入ってるか、わからないんだ。当初、末期的なまでにヘテロセクシャルに見えた。でも、絶えずぼくにふざけてきて、純粋にどきどきしようとしてる。ぼくがチュチュを脱ごうと格闘したり、道化師の大きな口を塗ってるのを見ることは、彼を不快にさせないのだ。混乱した性的、感情的なぶつかり合いがステージで起きてても、人生を反映する芸術的センスがあるのだ。

わかるよね、悩ましい悪夢と同じくらい愛を失うのは辛い、愛はこれまでと同じくらいぼくを捕らえるのだ。その直し方とは我々にくっついてる社会的な束縛から愛を取り除くこと、危険を冒すことなのだ。誰かがかつてぼくに言った。「窓が落ちてくること、割ること、つかむことを待つのはやめよう。」手に入れないことを求めないなら、そして求めて手に入らないなら、少なくともどこには向かわないであろうくらいの考えは持ってるのだ。

みんな、愛のボートに乗りたまえ。


2003/11/02
11/2のボーイ・ジョージのコラムから。ネタ元は100% Boyから。

愛の道はよいアドバイスで敷き詰められている
ときどき、会話の途中で、自分が友人に気の聞いたことをいい、自分も気をつけられたらいいのにと思う。悲しいかな、我々の多くは知恵を授けるのはエキスパートだけど、それを自分自身が穴から抜け出る助けとして使うことはめったにないんだ。

この種の一番最近の会話は人間関係や愛、そしてその果てしない複雑さについてのものだった。自分がそういう関係になくて、友人がぼくにアドバイスを求めてきたとき、ぼくはちょっとKentucky Freudみたいだったよ。仲のよい友人が自分の今の人間関係について話してたんだ。海の向こうのシナリオは、彼女に熱望していた自由を許すが、結局どこへもいけないと感じるのだ。それはぼくのお気に入りのジョニ・ミッチェルの歌詞みたいに聞こえるんだ。「我々は愛することは好きだけど、自由を愛するようにはいかない。」ぼくは自分が愛の複雑さや落胆と戦ってるときには、いつも音楽に目を向けるんだ。歌が解決策を提示することなく、ただ惨めさや混乱におぼれさせるばかりだとして、誰が気にする?

「私はただ彼に心に決めてあきらめないでほしいの。」と、友人は嘆いた。でもどうしてぼくたちは他人に決定してもらうことを期待するんだろう?愛についておかしなコンセプトを思いついた人がそれを許してしまったら、彼もしくは彼女は子孫に金銭的にひどい遺産を残してしまったことだろう。

自分が縮み上がったことで、自分にとって役に立つ関係を築くためには、まず自分がそこから何を欲するかを正確に決めなくてはならないことがわかったよ。完全にアドバイスだけど、自分の欲望の対象が同じものを欲するなんてどうやってわかるんだい?たとえ、誰かがあなたに「君なしで生きられない」と言ってきてもだよ。

しばしば人が永遠の愛を誓うとき、そのときの彼らはまさに感じている通りなのである。しかし、彼らがもうそんな風に感じないと宣言してしまえば、慰めの言葉もないのだ。ぼくを誤解しないで。ぼくは実際に愛は正しいと思うし、愛を理解すること(または理解しようとすることは)は、ぼくのお気に入りの娯楽なんだよ。でも、このスピーディーな世界では、愛を定義し愛するのに大胆になるのはますます不可能になってるって、ぼくは感じるんだ。

(続く)


Love Love Culture Clubのトップに戻る