本日のカルチャー・クラブなもの(2005年11月分)


2005/11/29
100% Boyに11/25のFriday Night With Jonathan Rossにボーイ・ジョージがAntonyと一緒に出演したときのビデオがアップされています。二人でYou Are My Sisterを歌っています。この日のボーイ・ジョージの衣装は、彼にしては黒ずくめでかなり渋めの衣装です。もしかするとPVよりもジョージの露出が多いかもしれません。


2005/11/25
9/30にここで紹介したYou Are My Sisterですが、100% Boyによると12/5リリース予定が早まり、11/21にUKでリリースされました。CDが2種類、7インチレコードが出ます。通常版はYou Are My SisterとPoorest Earですが、Enhanced版のCDではYou Are My Sister / Forest Of Love / Paddy's Goneに You Are My Sister がビデオでつく模様です。

CD1:You Are My Sister / Poorest Ear
CD2:You Are My Sister / Forest Of Love / Paddy's Gone + You Are My Sister(ビデオ)
レコード:You Are My Sister / Poorest Ear


2005/11/20
突然ですが、

TABOOが日本にやってきます。

正確に言うとロンドン版「タブー」を映画にしたものが日本に来るようです。もちろんボーイ・ジョージもリー・バウリー役で出演します。12/24(土)に渋谷のライズXを皮切りに、大阪、名古屋、札幌などで上映されるとのことです。ジョージの出演はもちろんですが、「君は完璧さ」「カーマは気まぐれ」「バウ・ダウン・ミスター」をはじめとするおなじみの曲から、ミュージカルのためにジョージが書き下ろした曲が満載でファンとしては必見よね。

****TABOO****


2005/11/16
100% Boyによると、celebritymessages.comというサイトがあるそうです。そのサイトでは携帯の着メロやアラーム、ビデオなどを提供しているのですが、有名人がいろいろなメッセージを言ってくれます。ボーイ・ジョージもあります。とても残念ながら日本の携帯には対応していないと思われます。しかしビデオe-カードではジョージが「誕生日おめでとう」や「メリークリスマス」から「元気出して」「ごめんなさい」、さらには「ゲイ(レズビアン)の告白」を言ってくれるのを見ることができます。


2005/11/14
11/9の続き。

ホモセクシャリティは角で象がバンジョーを鳴らしているようなもので、みんなそこにいるのは知ってるけれど、たいていは無視することにしているのだ。一番いけてる音楽のラガやヒップホップさえ、アンチゲイ感情で味付けされており、このことはただ混乱を招いているのだ。マット・ルーカスやキャサリン・テートが我々のホモセクシャリティに対する態度に関する鋭いコメディーを演じてくれたり、ブジュ・バントンとその仲間は我々が銃を頭につきつける必要があるなんて言ってくれてる。どうやったら混乱しないですんだだろう。ゲイの人々に向けられた悪い血の大半は、正にお尻でのセックスに密かにはまったストレートの人たちからうつされたと考えるのが安全だと思うんだ。本当の寛容さはゲイの人々がもうたくさんだと、辱めとともに生きることを拒絶したとき、作られるんだ。法律は人種差別やホモ嫌いを食い止めるために制定されるのだが、法律で人々の感情や恐怖まで禁止することはできないのだ。60年代にNYでストーンウォールのドラッグ・クイーンたちが当時のホモ嫌いに対抗して大暴れしたこと、ピーター・サッチェルのような変人が、まだまだやることがあると認識できるだけの感覚を持ち合わせていることに感謝するよ。ぼくはホモであることを気に入ってるんだ。君はどう?


2005/11/09
11/6の続き。

文化としては、少なくともテレビの上では、同性愛は大きな画面の一部だってことをだんだん受け入れてきているけど、Section28が存在していて、まだ沈黙の申し合わせがあるんだよね。トーリー党(保守党)は「同性愛を促進する」なんて言葉を作った。まるで、同性愛に関する賢明な論議なら何でも潜在的にはストレートな子でもすごいゲイになるかもしれないって言ってるみたいなんだよね。もちろんそんなのは説得力がないし、聖書で育った子がみんな熱心なクリスチャンになるって言ってるみたいだ。ぼくが何で他人に比べてゲイの人がいるのかをまじめに考えるほど、ぼくのばかげた論理は筋が通ってくるんだよ。散々言ってきたけど、ぼくたちはみんなストレートであるのと同じくらいゲイで、逆もまた同じなんだ。他人にとって魅力があるものをその人が見出せないってことは、ぼくには意味がない。自分の言葉をもう一回引用すると、「マスターベーションはいまだにペニスと遊ぶことだ。それが自分のであってもね。」たとえ、Section28のせいで教師が同性愛について話を切り出せなくても、そのことは校庭ではいまだに会話(もしくは非難?)の最新の話題なんだ。ティーンの男の子はだいたいその話題にはまってるものなんだよ。同性愛についてよく知ってるわけじゃないけどね。

(続く)


2005/11/06
今月のAXMのボーイ・ジョージのコラムから。ネタ元は100% Boy

学校退学

ぼくが学校嫌いなのは秘密でもなんでもない。このことはぼくが権威を嫌うのと同じくらい生徒や教師から絶えずいじめられたりしたのと関係があるのだ。

ぼくは小さいころからののしられてきた。と言うのもぼくは極端に女の子らしかったし、サッカーや木登りに全然興味がなかったからだ。家でもぼくは4人の兄弟や父親から「オカマ」とか「ホモ」とか「女の子」の名前であれこれ言われた。この名前は他の呼び名と一緒になって運動場でこだましたけど、一番意地悪な言葉はいつも「女の子」だった。このことは女の子(特にかわいい子)が世界の中心にいる環境では奇妙に聞こえるかもしれないね。思春期の男の子ってすっごくバカだから、このことは最高なことにも最悪なことにも同時になりえるんだ。学校にはもうそういう残酷さは存在しないってぼくは信じたいね。でも事態はだいたい同じなんだって想定するのが無難なんだろうね。一方で、そこに住まう人たちの大半がただ自分たちを性的な生き物と考えと折り合いをつけて、自分たちのセクシャリティに対する疑問に対処していく場所では性的な妄想をするのが流行してるんだっていうのは理解できるよ。最近の若い子達は同性愛に対してより多くの情報を持っているし、同性愛者は確かにさらに目に留まるようになってるし、受け入れられるようになってるはず。でも「私は村でたった一人のゲイです」みたいなおなじみのキャッチフレーズは必ずしも寛容さを作り出してるとはいえないのだ。ぼくが学校にいたころ、他の子たちはラリー・グレイソンの'ooh, shut that door (ドアを閉めて)'って言葉をよく引用してた。そして、この言葉がホモと疑われる人に向けられるとき、そんな短い冗談で自分についていい気分になることはめったにないようにできてるのだ。もちろん、だれもパソコンの世界で生きていたいなんて思わない。そこでは良質のユーモアが冷たい目で見られてしまうのだ。(それにそこではユーモアの力がゲイコミュニティに勝るなんて誰にわかる?)でも、冗談の上にアイライナーが乗っかるなんてうんざりなことが時々あるよ。都会的クールさを体現するか、絶大な影響を及ぼすことができない限り、学校の運動場はもう目立つ場所じゃない。ぽっちゃりした坊やは、メガネをかけてて、リストはエンドレスだってわかってる。でもぼくは今でもすごくたくさんの子供たちが「ぼくはゲイ、それってどうなの?」って宣言してるんじゃないかって思うんだ。

(続く)


Love Love Culture Clubのトップに戻る