本日のカルチャー・クラブなもの(2005年10月分)


2005/10/26
100% Boyによると10月中のボーイ・ジョージのDJは残念ながらキャンセルとなりました。10/15分のシアトルでのDJは12月の予定だそうです。

ハロウィンのDJもあったので、ジョージやお客さんがどんな格好で現れたのかしらと思うと、かなり残念です。


2005/10/21
100% Boyによるとモスクワで行われたRussian Fashion Week(RFW)にB-Rudeが参加したそうです。イベント自体は10/17から始まり、B-Rudeのショーは10/19に行われました。RFWのサイトにそのときの写真が載っています。ジョージも現地に行ってたようで写真に納まってました。

B-Rudeの写真


2005/10/16
続き

黒人のキャラクターだけがテレビや映画で同様にありがたくも言い古された時代だったころ、完璧ではないにしてもこのことはすごく言われていた。

もちろんテレビで見るような害のない人をまさに絵に描いたようなゲイ男性もいるけど、そういう人たちもぼくには相容れないものなんだ。ぼくがヘテロセクシャルだったら、ぼくにはスタイルがないとか、唯一の望みが完璧なスフレを作り上げられるようにするってことだって言われたら、ひどく気を悪くするだろうね。うん、ぼくはちょっとまじめな顔をして言うと、Queer Eyeは本質的には害がない(セックスもない)お楽しみだってわかってる。でも、個人的にはストレートの男の見方が好きだし、彼らにはぼくのキッチンには近寄ってもらいたくないね。

ぼくは、物事がぶつかり合って、わけがわからない世界に住むのが楽しい人間なんだと思う。雇用の権利や関係において平等が必要なのはわかってる。それから誰もが選んだ人と結婚する権利があるってことも賛成だ。でもまだ調和しようとするのは無駄な努力だって思うんだ。ぼくが知る限り、自分の税金を払えば他のみんなと同じサービスを受けられる権利がある。ぼくのセクシャリティは珍しいものでも誤ったものだとは思わないし、誰かに賛同してもらって受け入れてもらおうなんて思わない。ゲイであることが好きだし、この星の他のゲイの人と考えを共有しないってことに大喜びしてるんだ。

ぼくからは以上。これからクッションを膨らませてソファを飾りなおすんだ。なつかしのバーバラ・ストライサンドを聞きながらね。


2005/10/16
10/8の続き。

ぼくがWill & GraceやQueer Eyeなんて番組(どちらもゲイが登場するテレビ番組)を見ると、よく気がつくとくすくす笑ってるんだけど、しかめっ面をしたり赤面することはもっと多いみたいだ。こういう番組が人気があることは、大いなる勝利のように見えるかもしれないけれど、残念なことに大部分はゲイを誤って描いているということ、彼らがすごく自由で寛容であるという誤った印象を与えてしまってるということだ。最大のジョークはほとんどの若いホモセクシャルの若者は、平均的なヘテロセクシャルの人よりストレートに見えるし、彼らはカーテンやクッションよりもマンチェスターユナイテッドを応援することがよくあるらしいってことだよ。

おそらくぼくはテレビや映画でゲイの男性や女性を正直に描いて欲しいって期待しすぎてるかもしれない。ぼくはあっちこっちで脚本家を見かけるんだ。というのもぼくは強烈な女性や得がたいストレートの男性に囲まれてるから。でもぼくは宙でたばこを構えるなんてしないし、くねくね歩いたり、もつれたしゃべり方なんてしないよ。もっと大事なのはセックスして、そのことをストレートの男性の友人と同じかそれ以上にたくさん話すことだよ。完全に溶け込むことやテレビを飾ることを提案しているわけではなく、性的エネルギーはわずかでも誤った方向に行くことはないだろうということだ。Queer As Folkはちょっと多すぎたね、だってその番組ではゲイ男性を心の入ってない性的に野蛮な人として描かれたんだから。さらに、その描写は少なからず語ったけれど、自分の人生をHにささげたゲイ男性にとっては程度が異なるものだね。

(続く)


2005/10/08
今月のAXMのボーイ・ジョージのコラムから。ネタ元は100% Boy

あえてちがってるんだって!

人がぼくに我々は寛容な時代に生きてるって言って来ても、ぼくは言いたいことは言わずに黙ってるんだ。ゲイ問題に関してはずいぶん目に見えるようになってきたし、少なくとも表面的には寛容だってのは認めるけども、すべて受け入れるのには誤解がすごく多いよ。

寛大に扱われることは受け入れられることとは同じじゃないし、正直誰が本当に受け入れられたい?ぼくはやってみたけれど、結局なぜある人はゲイで、他はそう見えないのかの理由はわからなかった。何らかの設計ミスのために、生まれながらにしてゲイであるという考えは受け入れられない。人間のセクシャリティは手始めに本を開くようなもので、我々にはたくさん性的可能性があるんだって強く感じるよ。このことは多数派は常に社会が普通とするものには何でも向かっていくけど、ほとんど「普通」じゃないとされる性的欲望を心に持ってるのを押し殺しながら、自分をヘテロセクシャルだとする人がたくさんいるんだって考えを完璧なものにするね。たとえば、ぼくがデートした人なんかほとんどそうだよ!

こんなことを言うのは奇妙にかもしれないけど、平等には欠点があるんだ。でもこれは明らかに本当だよ。少数派が同化しようとするといつでも、アイデンティティのものすごい喪失がある。そして同性愛の男性や女性の場合、このことはホモセクシャルが主流で描かれているという点で反映されているんだ。テレビのゲイはいつも一元的で、ふわふわしてるか鼻持ちならないかで、悲劇的なんだ。で、多くの人にとって完璧に言い表してることが、モリッシーの言葉を借りると、「私の人生を何も言い表してない」ってこと。ぼくは自分がふわふわで、鼻持ちならなくて、悲劇なのは認めるけど、他のものもいっぱい持ち合わせてる。ぼくは大量消費向けにひどい修正がされてないゲイのキャラクターにテレビや映画で会えるまで、生きるつもりだよ。

(続く)


Love Love Culture Clubのトップに戻る