New York Postのインタビュー

2000/9/27付けのニューヨーク・ポストにボーイ・ジョージのインタビュー記事が載っていましたので、紹介します。

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ポップスのスターダムにいた約20年の間、ボーイ・ジョージは悪魔、変人、プリマドンナ、ヘロイン中毒と呼ばれてきた。他に何があるか誰が知っていようか。今40近くなって、彼はただ良い人と呼ばれたいのだ。

今夜ビーコン・シアターでカルチャークラブのアメリカ・ツアーが幕開けするが、その前夜のニューヨーク・ポストとの独占インタビューで「いい人であることはいやな人であることほど、時間や努力はかからないんだ」と、その歌手は語っている。

「ぼくは人気絶頂のとき、気難しいやつっていう噂があったんだ。でもそれは、人が成功すると人生をコントロールできなくなってかんしゃくを起こしたりしがちだからなんだ。シャーりー・テンプル・シンドロームだよ。そこではヒステリーが事態を変えると感じるんだ。ひどすぎて役に立たないんだけどね。」

ジョージ・オダウドは39年前に生まれた。20年間カルチャークラブのフロントマンとして、最近はクラブでレコードを回すDJとして活動する間、彼は自らを生み出し、また再生してきた。今夜のステージでは両方に触れることになろう。

最近、ボーイ・ジョージはイギリスのハムステッドにあるネオ・ゴシックの豪邸に住み、ロンドンのサンデー・エクスプレス紙にナイトライフ・コラムを書き、面倒なレポーターに対し向き合っている。

彼は自分の仕事のことをこう語っている。「ぼくは責任を持とうとしてるんだ。批判的になるときは、ユーモアを交えてやるんだ。人は面白くやってる限りは意地悪になりえるんだ。」

世界が彼の芸術性と、ドラッグ・クイーン(女装の男性)のメイクに気がついたのは、1982年の憂いを含んだ"Do
You Really Want to Hurt Me"というヒット曲からであった。

彼の派手な性別を超えたステージでの人柄は国境を越えた騒動を引き起こしたばかりか、ヘロインまでも隠していたのだ。「1983年、84年を振り返ると、ぼく達のコンサートの外ではプラカードを持った人たちがいて、ぼくのことを悪魔だって言ってたんだ。ぼくが覚えてる人にはこんなことを言った人もいたんだ。『もし、セックスが原罪なら、ボーイ・ジョージは何者なんだ?』」

「そのころ、ぼくはかなり無邪気で、若くて、混乱してたんだ。マリー・オズモンドみたいだった。まつげは長かったけどね。ぼくはきっと今のほうが少し悪くなってるだろうね。なぜなら、自分がなにを話してるかを知ってるし、世界がどう動いてるかを少し理解しているからね。」

1986年に医師の助けを借りてヘロイン中毒を克服して以来、ボーイ・ジョージはハレ・クリシュナをはじめとする東洋的精神性を見出してきた。

「これらの宗教は人に自分の行動や自分の生活のしかたには、責任があるってことを思い出させるんだ。」と彼は語る。「それで、ぼくはまずそれに惹かれるんだよ。」

他のポップスターと違って、ボーイ・ジョージは自分の生活を語るとき恥ずかしがったりしない。暗部でさえもだ。彼は自分のドラッグ中毒や、カルチャークラブのドラマー、ジョン・モスとの情事(このことは多くの曲に素材を提供したものの、彼が克服するのに数年を要した)のことをオープンに議論してきた。

有名人にしては、彼は非常に現実的である。

「ぼくは自分をスターだなんて思ったことはないよ。でも、バンドのほかのメンバーとも違うと思ってる。自分を男の一人であるかのようには言いたくない。でも、なんで誰かしらにならないといけないんだ?」と彼は聞いている。

ボーイ・ジョージの世界ではマドンナやプリンスやマイケル・ジャクソンのような人たちがスターなのだ。「食料品売り場でマイケル・ジャクソンがレモンの袋を買ってるところに出くわすなんて思わないよ。」

ボーイ・ジョージは木工細工を組み合わせているかのようではない。彼が名声を愛する程度まで、何ものも許可なく彼の写真をとらせたりして、彼を苦しめたりしない。

「ぼくはジャーナリストよりカメラのほうが嫌いだね。」と彼は言う。
「自由の女神じゃないんだ。人は自由に歩いたり、写真をとったりするものなんだよ。」

彼は機転の利いて、しゃれたウィットを飛ばすことで知られる。でもあまり深読みしてはいけない。何年も前の有名な言葉の中には「ぼくはセックスよりお茶の方がが好きなんだ。」というのもあるんだ。

「ああ、人が言うもっとも世俗的言葉が時に一番価値があるんだ。」ここでボーイ・ジョージは言う。「これは素晴らしい言葉だった。でもそれだけのものさ。」