復活の世界 Faile 1 「人形アニメ・Xボンバーへ」
今回は、アニメーションはアニメーションでも、人形アニメーションについてのお話です。
この部屋は「旅行の部屋」であることは、よく判っておりますが、番組制作に当たって取材をすることになり、アメリカまで出かけて行きました。今回はそのことについての思い出を綴ってみようと思ったわけです。
あれは1980年頃のことでしょう。漫画家の永井豪氏のダイナミックプロから連絡があり、番組を制作するに当たって、その企画を考えて欲しいということでしたが、そのポイントが人形アニメーションだったのです。ダイナミックプロダクションは、すでにそれを制作するプロダクションも決めていました。
監督も三上陸男氏を決定していて、彼が率いる特撮プロダクションが担当することになっていました。
ところが、まだこれに当てる原作があるわけではなかったのです。そこでわたしのやることは、企画から考えることでした。そうなると当然どんなストーリーでやるかも考えておかなくてはなりません。
そこでわたしは、かねてから考えていた「竹取物語」をSFでやってみたいと思って、企画にしたのでした。それには永井氏もダイナミックプロも乗ってくれて、制作を申し入れてきたI氏へ連絡をすることになったわけでした。
いろいろと紆余曲折がありました。しかしそんな中でも、作業は着実に進められていきました。ストーリーに基づいて、豪氏はただちにキャラクターの制作にかかり、わたしはシリーズの構成にかかりました。
そんなある日のこと、ダイナミックプロの設定で、アメリカのNASAへ取材に行かないかというお誘いがありました。永井氏のお付き合いのある方が、大統領補佐官と関係があり、かなり厳しいところへも行くことができるというのです。もちろん拒否する理由はありません。永井豪氏と、彼の兄弟共々、監督、プロデュサーなどとハリウッドを目指したのでした。
わたしは「宇宙戦艦ヤマト」の打ち合わせで、ハワイのホテルへ籠もり、メインスタッフ全員で協議したことは経験済でしたが、今回はその二回目の体験ということでしたが、ただ「ヤマト」の時とまったく違っていたのは、旅立つ時の気分の問題でした。この時はすでに作品の制作については異存がない上に、あくまでも異色のSF番組を制作するための付録で、何かいいヒントにでもなればというのが目的だったのです。大変気が楽でした。
飛行機の中では、これまで「マジンガーZ」「グレートマジンガー」「グレンダイザー」「キュウティハニー」等々の永井豪原作作品の脚本を書いてきたわたしは、これまで番組の放送中に出会うと言うことはほとんどなかった豪さんと、気楽にお話する機会を得たことは幸いでした。こうした半ばプライベイトな旅行で、しかもゆっくりと話をする機会があるなどということは、滅多なことでは、あり得ませんでしたから・・・。
これから制作する番組については、殊更打ち合わせをすることもないことから、堅苦しい話は一切いたしませんでした。
ロスアンジェルスまで、十数時間はかかるというので、機中ではかなりゆっくりと寛いで話をしました。
もちろんそんな長時間、ずっと話をしていたわけではありませんが、それでもかなり長い時間お喋りをすることができました。
とにかく貴重だったのは、彼が漫画家を志して、能登から東京を目指してやって来た頃の話から、デビュウするまでの、目標を追おうとする、若者らしい苦闘の話でした。
普段のおおらかで、明るく、人懐っこい印象の彼からは想像できないような、真摯な話でした。その必死な思いが、わたしにひしひしと伝わってきたように思います。
丁度わたしも家を出てから、苦闘しながらチャンスを掴んで、放送界で活躍できるようになったこともあったので、志を立てて東京を目指して来た彼の気持ちは、実に率直に伝わってきたものです。
まさにこの機中の数時間は、若い者同士の気持ちが通じ合った数時間だったし、漫画原作者との貴重な対話だったと思っています。
これまでハワイへは行っていますが、アメリカ本土へやって来たのはこの時がはじめてで、わたしはいささか興奮していました。しかも最大の目的がNASAを見学できるということです。
この頃は宇宙への関心が高くて、アメリカではスペースシャトルの開発が急ピッチで進められていましたから、少なくともSFに興味のある者にとっては、垂涎の的で、番組制作が縁であったが、永井豪氏のコネでこんな貴重な体験ができることになったことは、大変幸運なことでした。
しかも宿泊地は、映画の都ハリウッドです。ときめかないはずはありません。
英会話も得意というわけではないわたしは、この日から共同で行動する日意外は、一人で行動しなくてはならなくなりました。
とにかく不慣れなこともあって、電話一つ日本へかけるにも苦労しました。まだまだ宿泊客にたいするサービスも、現代のようなわけにはなっていない時代です。日本人客に対する接客もまったく配慮はありませんでした。
多少窮屈さを感じたり、心細さを感じたりしながら、みなで一緒に予定の取材をするのを楽しみにしていたのでした。
ホテルの部屋から眺めると、裏手には俳優の加山雄三が結婚式を挙げたという教会が見えていました。世界中のマジシャンたちが集ると言う、マジシャンホールも、眼下に見えていました。大都会の激しい動きを目の当たりにして、アメリカという国のエネルギーを、じわじわと感じていったのでした☆
(旧HPからの復活原稿ですが、一部加筆、訂正いたしました)