復活の世界 Faile(19)「下町の風物詩」

梅雨の季節が来ると、これからは東京の下町に、夏を迎える年中行事が人々を楽しませます。

現在わたしは東京の世田谷区に住んでいますが、生まれ、育ったところは、同じ東京の墨田区向島という荒川に近いところで、文豪永井荷風の、小説「墨東綺譚」の舞台になった遊郭が直ぐ近くにあったところでした。隣組と言えるところには、落語家の三遊亭圓歌、亡き漫画家の滝田ゆうさんも住んでいました。

近くには、有名な名園「向島百花苑」も近くにありますが、今は水戸街道が走っていて、大変賑やかなところになっていますが、昔はかなり文豪たちも住んでいたところだったのです。しかしわたくしが成長する頃は、ほとんど住んでいらっしゃる方はありませんでした。

こんな環境の中にいたためか、祭りをはじめ伝統行事が盛んで、大事にされていた土地でした。そんなこともあって、幼少の頃から、お祭りは大好きでした。夜店も楽しかった記憶があります。

近くの神社の夜店が楽しみでしたが、何といっても最大の楽しみは 、川向こうにある浅草へ遊びにいくことでした。もちろん父に連れて行って貰うしかありませんでしたが、実家の商売がお休みの日や、父の体に空きができた時などは、東武電車に乗って出かけたり、時には円タク(一円タクシー)に乗って出かけました。

浅草は近郊最大の歓楽地でしたから、いつ行っても観音様を中心にして賑わっていました。

下町っ子が先ず浅草へ通うきっかけは、何といっても観音様へ行って、境内に集まってくる無数の鳩に餌をやることでしたが、もうちょっと成長すると、もっぱら映画を観に連れて行ってもらったものです。

通称ロックといわれる歓楽街で、映画館、大衆演劇場、演芸場などが道路を挟んで、左右にぎっしりと建ち並んでいて、昨今の様子からは想像できないような大変な賑わいを見せていました。軒を連ねていた劇場の前には、呼び込みが出ていて、ごった返す人ごみに負けまいとして、盛んに客を誘っていました。軽演劇も盛んで、喜劇王と言われる榎本健一・・・通称エノケンやその後は萩本欽一やビート・タケシなどを次々と生み出すところでもあったのです。

とにかく下町の者には、浅草と言うところは、切っても切れない縁の深いところです。

朝顔市、ほおずき市、三社祭、羽子板市、お酉様というふうに、江戸時代以降の年中行事も多いところです。

浅草寺は庶民に親しまれているお寺なんですが、それでも昨今は、昔のようにいつでも賑わっているというわけにはいきません。映画街も寂れてしまって、とても昔日の面影はありません。しかし地元の人は、一生懸命に集客を考えて努力しているようで、伝統行事とは関係のないサンバフェスティバルなどを催していますが、平日の人出がどうしても少ないようです。

 

わたくしも現在住んでいるところが、かなり浅草とは離れていますので、絶えず出かけていくというわけにはいきませんが、夏を直前に行われる「ほおずき市」などには、必ず出かけるのですが、ほとんどの場合暑い日が多くて、今年はまさに猛暑でした。昨今はその猛暑さえも、夏の伝統行事を彩る風物の一つに思えてくるようになりました。

この日にお参りすると、4万6千日お参りしたのに充当するというのですが、これはあのほおずきの種から発想したご利益だと思います。これは夏を前にした、病魔退散のために生まれた行事だったのでしょう。

とにかく東京の下町を代表する繁華街である浅草は、こうした伝統行事を通じて、かなり人を吸引するようです。昨今は年配者と外人が多いようなのですが、これからはもっともっと、もっと若い人が集まってくるようになるといいと思うのですが、それには街全体に魅力がないといけないでしょう。

かつては松竹の国際劇場というレビューの大劇場があって、それを見に来る観光客も多かったのですが、その劇場も撤退してしまって、今はホテルになってしまっていて、前述の映画街であるロックの衰退と共に、常時観光客や、若者が集まってくるような魅力を生み出さないと、どうしても年中行事でもない限り、大挙して人が集まり活気づくと言うことは少ないように思います。下町生まれで、下町育ちのわたくしなどは、気風のいい下町の雰囲気が、もう一度戻ってきてくれるのを、心から願わざるを得ません。

さて、今年は猛暑だと聞いております。

どうかお体を労わって、お過ごし下さい。☆



この原稿は旧HPへ載せたものに、加筆、訂正したものです。