復活の世界 Faile(28)「変化する理解の仕方」

大学生と接するようになってから、改めて考える機会を得ました。その一つが理解の仕方ということでした。

今回はそんな話を書きたいと思います。

昨今は政治の実権が大衆のものとなっているので、さまざまな文化面でも、経済的な面でも、すべてが大衆化してきています。つまりあまりハイレベルなものを狙うと、その真意、真価が理解して貰えないために、まったく無視されて失敗してしまいます。こうしてすべてが大衆化してきた大きな牽引車となったのは、何といっても「ビジュアル化」ということではないでしょうか・・・。

一般にわたしたちは、物事を理解するには、「見て理解する」「読んで理解する」「聞いて理解する」「触れて理解する」「考えて理解する」、おおむねこの五つの方法によって行っていると思います。この中で、何と言っても一番手っ取り早い理解の方法は、「見て理解する」「聞いて理解する」「触れて理解する」という三つの方法でしょう。これらは直接的ですから、年齢、能力にかかわらずに、対象物の理解がし易い方法ですが、それに対して「読んで理解する」「考えて理解する」という方法は、前者の方法と比べるとかなり年齢と能力によって差が生まれてきてしまいます。しかも神経を尖らせたり、頭をかなり使わなくてはなりません。

日本の場合は、どちらかと言うと後者の方法に力点が置かれたまま、長いこと修整もしないままでしたが、時代の変化によって、それまでの習慣を改めようという動きが激しくなったのは、みなさんも記憶にあるでしょう。今から20〜30年ほど前からだったと思います。とにかく判り易くということを目標にして、「ビジュアル化」ということが、政官一体になって叫ばれ、これまで長くつづいてきた活字による伝達、コミュニケーションの方法を、ビジュアル化するようになりました。活字による伝達ということを考えると、確かにかなり高度の能力が求められるために、誰にも親しまれ、理解して貰うということにはなりませんでした 。高齢者はもちろんのこと、若年者でも、ある程度の教育を受けていない者には理解できないという弊害を生じていましたし、時にはそのために差別さえも生んでしまうことにもなってしまっていました。そのためにこれまでの方法では、理解度の広がりが限られていたわけです。

「ビジュアルに」という運動は、それまでのやり方を考えると、かなり大きな改革でした。

それでもかなり強力に推し進められた結果、その流れは加速的に浸透していきました。現在では、あらゆる分野で、ビジュアルな表現が行われるようになりました。チラシ広告、商業文書はもちろんのこと、教科書も、公文書なども、とにかく見て理解できるように工夫されています。実に判り易くていいことだと思います。

しかし・・・。

あまり長いこと、見て判る、見て理解するということに力点が置かれすぎてきたために、「読んで理解する」「考えて理解する」ということが、いささか疎かになってきてしまったのではないかと、心配になってしまうようなことが起こってきてしまっています。さまざまなことが判りやすく、理解しやすいと言うことは大変いいことなのですが、昨今の世相を見つめてみると、いささか「考えて理解する」ということが無視されたような事件が起こりすぎます。自分の都合でしか判断できずに、まったく「読んで理解する」という知識不足を露呈してしまった発言も、事件も多すぎます。

現代は、あまりにも周囲を考えない、自己中心的になってきてしまいました。

若い人の間に、KYなどという言葉がはやっているといわれますが、単なる言葉遊びでなく、真剣にそのことについて考えて貰いたいものです。

政治、経済、文化と、さまざまな面での大衆化するということは大変いいことだとは思うのですが、一方でさまざまな面でレベルダウンしてしまうということにもなるという障害もあるようです。

30年前あたりから起こった、もっと判りやすくという運動は、現代に至って、振り返ってみなくてはならないところに差しかかっているのではないでしょうか。

ゆとり教育の弊害で、さまざまな問題が持ち上がってきていましたが、ようやくその修正をしなくてはならなくなったように、表現のビジュアル化ということも、このあたりで多少修整をしておかないと、大衆化ということが、すべての感性におけるレベルダウンと、同意語になってしまうような気がするのですが・・・☆



これは旧HPに公開したものを採録したものです。