復活の世界 Faile(31)「恐怖と畏怖の境界」

流行というものは作られるということを、つくづく考えることがあります。何かをきっかけにして、一気に広げていくには、それなりに必要なものがあります。そのきっかけになる起爆剤・・・材料がなくてはなりません。そしてそれを更に大きな爆発にしていくためには、大きな組織や資金が必要になります。

そういった手だてを尽くして、如何に市民の関心を高め、口から口を通して、その裾野を広げていくかということを意図していきますが、たしかにそれらは、大変大事なことです。

今回取り上げたいのは、実は所謂ファッションのような「流行」ということではありませんが、その時その時の市民の気分によって生み出される、不可思議な流行というようなものについてです 。

その一つが、恐怖物とその周辺の推理物の流行ではないでしょうか。心理的に不安な時代にぴったりとフィットしてしまって、映像も小説も、そういった類のものが圧倒的に好まれているようです。

もうかなり前から、人々は想像を楽しむといった気分が、すっかり薄れてしまったようで、現実的な、殺伐とした実話めいた話ばかりが氾濫しています。やはりそれは、時代が求めていたのでしょう。この二十数年、同じような空気がつづいています。

かつて拙作「宇宙皇子(うつのみこ)」が出版された頃、出版社が大変力を入れて宣伝してくれたお陰で、一時は古代史ブームが到来して、歴史に関心のなかった若者にも古代史ブームを起こしてしまいましたが、その途中から、徐々に、徐々に現実的なホラーと推理物が入ってきて、ついには古代史物からすり替わって、本流になってしまいました。残念ですが、わたしはそういった類のものはあまり好きではありませんので、かろうじて一冊だけ書いただけに留まっているのですが、それも中身は、歴史の中にあった、恐怖の対象物を素材にしたものでしたが・・・。

時代は次第に窮屈になって、心理的にも、ゆったりとはしていられなくなってしまいました。いつも何かに追われているような、気ぜわしい日日を送っています。それがもう20年ぐらいつづいているのですから、たまりません。昨今はすっかり恐怖物、犯罪物、殺人物と、大変物騒なものが、大手を振って登場してきます。とにかく経済的なバブルが崩壊したということもありましたし、景気が盛り返していると言われなが、ほとんどの人にその実感がないという不確かさや、信頼関係の基本であった家族というものが崩壊していったりといった、生活の根底を支えてきた基礎的なものが、みるみるうちに変質していってしまうといった、時代の不安を背景にしたことだとは思うのですが、そうした市民の心理状態を利用して、小説も、映像も、「恐怖物」が蔓延していってしまっています。

わたしには、どうも人を恐怖に陥れるようなことが好きになれませんし、興味もないので、そういった作品は書く気がしませんが、あくまでもその人の楽しみだと、割り切れる範囲なら問題はないのですが、世の中にはその刺激に酔って、すぐに便乗する不埒な輩が登場するし、その事件を模倣する軽薄な輩も登場してくるのが、どうも我慢できません。

現実には恐怖政治、恐怖政治を行うようなことを、国家的に行っている国が存在したりしているくらいですから、仕方がないのかもしれませんが、しかし世界の大勢は、少しでもそんなことで緊張するようなことなく、落ち着いて生活ができるような努力をしているはずです。あくまでも「ホラー」はエンターテイメントの一種であって、現実には市民がそうあって欲しいとは思っていないはずなのですが、まったく関係のない人を恐怖に陥れたり、脅したりする者が続出してくるようになってしまっています。そんな空気に包まれているうちに、極度に不安に陥れるような「こと」や、「もの」に、馴れていってしまっていきます。そしてそういった流れに押し流されてしまっているうちに、失ってはいけないものさえも押しのけていってしまっているように思えてなりません。かつてはお互いに社会生活を営んでいく上で、犯してはならない基準があったはずなのですが・・・。

それは同じ「オソレ」ということでも、まったく意味が違う、「畏れ」ということなのです。

この「おそれ」には、敬うという意味が含まれていることは言うまでもありません。「恐怖」とはまったく意味が違います。しかしこの敬い恐れる対象物とは、一体、何なんでしょう。

その代表的な存在は、いうまでもなく「神」というものではないでしょうか。そういった絶対的なものの存在が薄れていった時から、どうも社会道徳も、倫理観も薄れてしまって、人を恐怖に陥れるような事件が、我が物顔で横行するようになってしまいます。かつては絶対的な存在で、侵しがたい存在であった「神」というものが、現代ではただ単に信仰の対象物であって、信仰と関係のない者にとっては、まったく無関心といったものに変ってしまいました。「神」に咎められ、裁かれ、罰を科せられるという「恐怖」も、まったくなくなってしまいました。

現代にはそういった、超自然的なものが存在するということは、ほとんど認められなくなってしまいました。

時代の変化によって、権威というものがあまり大事にされなくなってしまってから、人間関係においても、その人の前では圧倒されてしまって、言葉も容易に発せられなくなってしまうということが、ほとんどなくなってしまっています。つまり「畏怖」ということが当てはまる存在が、ほとんどなくなってしまったということです。

「神」にひれ伏すような謙虚さというものを失った人間たちは、傲慢不遜に生きるばかりです。時代の風潮で、アマチュアがもてはやされる風潮のためでしょうか、とにかく唯我独尊状態で人の言うことなど聞く耳を持たない者が多すぎます。自己主張中心ですから、相手の人に対する思いやりなどということも、まったく論外のようです。

そんな風潮から、テレビ、新聞を賑わわせる事件が氾濫するようになってきてしまいました。人を恐怖に駆り立てるような事件が続発しすぎます。それは人々が、「畏怖」する存在を失ってしまったからだとしかいいようがありません。

神を信仰せよなどということは言いませんが、少なくともその人の前では・・・または、ある存在の前では、知らず知らず、頭が下がってしまうような、畏れ多いものを持っていたいものだと思うのです。もしそういったことを心がける人が増えていってくれたら、少しは謙虚さが甦ってくるし、自分勝手に振舞う事件は起こらなくなるだろうと思うのです。そして意味のない事件の被害者も、出ないで済むかもしれないと思うのですが・・・。

「恐怖」と「畏怖」には、天と地ほどの差があるのだということを、じっかりと心に刻んでおきたいものだと思います。 しかし現代は、その大事な「畏怖」というものを失ってしまっているように思えてなりません。もう一度、現代人は、「謙虚さ」ということについて、真剣に考え直してみる必要があるのではないでしょうか。

こんなことを考える、昨日今日です☆



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