復活の世界 Faile(33)「恐怖と畏怖の境界」

わたしが古代に興味を持つのは、我々がまったく人種の違った存在になってしまうのであれば別ですが、少なくともこの日本で生まれ、育ち、成長してきたということを考えると、歴史を辿っていけば、きっと先祖たちも、形はごく素朴ではあっても、現代と同じような・・・いや、現代人のやることの原点となるようなことをしているのではないかと思うからなのです。

現代における政治、経済、文化などの原点ともなるようなものが、そこにはあるような気がしているからなのです。

もちろん参考にすべきこともあるだろうし、二度と犯してはならないという教訓みた出来事も、沢山あると思うのです。

今回は、まだ聖徳太子が幼少の頃の出来事です。

当時の権力者と言えば、物部守屋と蘇我馬子の二人ですが、彼らの政治についての考え方は、実に対照的なものでした。

コチコチの神の信奉者で軍事、外交を担当していた連(むらじ)と呼ばれる強面路線の物部氏と、韓国からの客人(まれびと)で、行政能力をかわれて朝廷の蔵を預かっていた(臣)と呼ばれる柔軟路線の蘇我氏でした。

もうこれで、ほとんど見当がついたかもしれませんが、彼らは政治を経営する上で、ことごとく対立するようになっていきました。

その第一の対立のきっかけは、仏を日本の朝廷に持ち込むかどうかということでした。当然のことですが、純粋に神の信奉者である物部氏がそんなことを許すわけはありません。まさに日本は建国以来神国であるという主張です。

当時は仏も異国の神という考え方であったのですが、物部氏としては、異国の神を持ち込むことに反対だったのです。これは立場上止むを得ないことだっかも知れません。

ところが蘇我氏は、日本での勢力を伸ばし、力をつけるに従って、彼らが信仰する、自国の神である仏を持ち込みたかったのです。対外的に動いている物部に対して、国内の内政的な面を担当していた蘇我氏は、必然的に農民たちと接触が多く、その関係で仏は、まず農民の間にどんどん受け入れられ、広がっていってしまったのです。

それには理由(わけ)がありました。

物部氏はあまりにも神を信奉しすぎるあまり、神々の世界の厳しく清冽な生活を、遠慮なく農民たちに押しつけていきすぎました。生活の規律についても、厳しさを求めました。そのために農民たちは、息苦しく、生活も思うようにはできないという不満が充満していったのです。それに対して仏を信奉する蘇我氏は、農民たちの苦渋を理解していたし、少しでも生活を楽にできるよう、土地の開拓もさせていきました 。物部氏は、神の土地であるということで、勝手に開墾を進めるなどということは、許してはくれません。仏の慈悲の精神が、神の厳しさを受け入れなくなっていったのです。

仏の勢いと共に勢いを増していく蘇我一族に対して、物部氏が面白いはずはありません。しかも蘇我氏は客人神を朝廷で祭らせようとしているのです。

軍事、外交という、強持てで力を発揮していた物部氏に対して、農民たちの心情を理解し、暮らし向きに貢献していこうとする蘇我氏は、激突することになってしまうわけですが古代の大戦と呼ばれる戦いの勝利は、結局武力に長けている物部氏ではなく、内政を担当して暮らしを楽にしていきつつあった蘇我氏に流れ込んでしまったのです。

それは決して、幼少の聖徳太子が、四天王の彫刻をして勝利のために祈ったことが伝えられていますが、その威力のお陰で勝利したわけではなく、実は劣勢な蘇我氏に援護射撃をした、農民たちがいたからだと思うのです。

明らかに、日常生活の中で、仮に神を信奉するとはいっても、終始厳しい態度を強制してきた物部氏よりも、暮らし向きを楽になるように計らってくれる蘇我氏に加担したくなるほうが自然の成り行きです。

理想的な神国であることを貫いて、強持て政治を押し通すのか、それよりも経済活動を優先して国を富ませる努力をしていくべきか・・・。ここまで考えていくと、これは決してはるか彼方の古代の出来事とも思えないものを感じるのです。きわめて今日的な問題なのではないでしょうか。

わたしが古代の人の精神風土に興味を持つのも、実は現代の政治、経済などのあり方などを見つめていると、それは古代にその初期的な痕跡がうかがえるからなのです。

日本人が日本人から抜け出せないでいる以上、政治家の言動の奥を辿っていくと、きっと原点である古代の政治家の葛藤に辿り着いてしまうような気がするのです☆



これは旧HPで公開したものです