復活の世界 Faile(34)「怨霊からの物の怪へ」

古代というと、何ともおどろおどろした怨霊というものが、直ぐにも思い浮かんできます。もちろん現代では、怨霊などという言葉は死後に近くて、ほとんどそんなものがあるということすら知らない方が多いでしょう。

不可思議なものが存在したことは、平安時代に活躍した呪禁師の活躍を描いた映画などで、多少は知識を持たれたかもしれませんが、実は平安時代に阿倍晴明、芦屋道満などが相手にしていたのは、それより古い時代の怨霊というものとは、ちょっと違ったものでした。

平安時代よりも遥か昔の、所謂古代から生まれたのが、怨霊と言うものでした。

権力者同士が、まったく主義主張が違ってしまったり、権益が違ったりして、ついには折り合いがつかずに確執を深めてしまって、引くに引けない状態になった結果、ついには暗闘を繰り広げ、その結果権力闘争に敗れ、無念な思いを残したまま頓死せざるを得なくなってしまった者・・・つまり陰謀などによって抹殺されたりすると、無念な思いを抱いたその敗北者は、その相手に対して、怨霊となって復讐しようとして襲撃してくるということがよくありました。

わたしが書いていた「宇宙皇子」という古代ロマンはこうしたことを背景とした小説でしたが、権力者たちが、ようやく国造りということを目標とするようになり始めた頃のことなので、思い描く理想的な社会の姿は人によって違い、そのためにぶつかりあうことも多かったのです。理想の国づくりといった高邁な志のためばかりではなく、一族の繁栄という問題もからんでくるので、余計に複雑で、深刻な対立になっていくのです。我が宇宙皇子はそんな中を、庶民の味方となって駆け抜けていったのですが、そんな世界の影の主役は、この怨霊というものでした。

大望を抱きながら、思いがけない陰謀、策略などによって、無念な思いを残したまま、挫折してしまった彼らについて調べてみたくなったので、わたしはぼちぼちと、怨霊たちについて資料となるようなものを集めていました。その結果、60数名の怨霊たちの名を上げることができたのですが、その中から少しでもみなさんが知っていると思われる人の名を上げてみましょう。

もし興味があるようでしたら、その一人一人について、ちょっと調べて見るのも興味深いものがあるのではありませんか。怨霊になったと思われる神、人の名は、異論のある方もいらっしゃるかもしれませんが、取り敢えずわたしが怨霊としてリストアップしたものの一部です。


須佐之男命(すさのおのみこと)

大国主命(おおくにぬしのみこと)

温羅(うら)

熊襲建(くまそたける)

大草香皇子(おおくさかのおおじ)

安康天皇(あんこうてんのう)

眉輪王(まよわのおおきみ)

坂合黒彦皇子(さかあいのくろひこのおおじ)

八釣白彦皇子(やつりのしろひこのおおじ)

市辺押磐皇子(いちべのおしわのおおじ)


あまり名前も聞かない人たちかもしれませんが、これらは超古代における怨霊たちです。

次の人たちは、大分名前は知っている人も多いのではないかと思うのですが、所謂古代の人たちです。


崇峻天皇(すしゅんてんのう)

山背大兄皇子(やましろおおえのおおじ)

倉山田石川麻呂(くらやまだいしかわまろ)

蘇我入鹿(そがのいるか)

有馬皇子(ありまのみこ)

大津皇子(おおつのみこ)

橘 奈良麻呂(たちばなのならまろ)

長屋王(ながやおう)

井上内親王(いのえないしんのう)

早良親王(さわらしんのう)


もう平安時代から後の時代ともなると、ほとんど知らない人はいないのではないでしょうか・・・。

右の写真は早良親王の霊を慰めるために作られた怨霊神社・・・崇導(すどう)神社ですが、同じ怨霊神社の中でも、わたしはここが一番好きなんです。

さて、怨霊になったと言われて、恐れられた方は、まだまだ沢山いらっしゃいますが、簡単に挙げてもこれだけの名があげられます。


菅原道真(すがはらみちざね)

崇徳天皇(すとくじょうこう)

六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)

源 頼家(みなもとのよりいえ)

源 実朝(みなもとのさねとも)

鳥羽上皇(とばじょうこう)

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)


一体、彼らが何をして怨霊になったかは、時間を見つけて、是非、お調べ頂きたいのですが、ちょっと上げただけでも、無念な思いを残したまま抹殺されてしまった、怨霊候補者の何と多いことか・・・。おおむね怨霊と言われるものについては、一つの厳然とした約束事があって、それに当てはまる場合についてだけ、怨霊となったのです。つまり敵対する者でも、まともにぶつかり合って倒された場合は、決して敗者も怨霊とはなりません。あくまでも心ならず倒された者が、無念な思いから怨霊となって襲撃したのです。勝ち残ったとしても、いつ襲撃してくるか判らない姿なき襲撃者である怨霊に怯え、何とかその恐怖から逃れる方法はないものかと苦慮した結果、考え出されたのが、神様として祭ってやることでした。抹殺した本人ばかりでなく、関係のない一般の人にも神として崇めてもらうことで、無念な思いを解消させようという意図です。こういったことから作られた神社が如何に多いことか・・・。

またそのことについてはお話することもあると思うのですが、取り敢えず今回は、如何に怨霊が多かったかということを、知って頂けたらと思うのです。今回はその一部を、参考までに取り上げただけなので、特に時代によってその数はあまり変化が感じられないかもしれませんが、実は平安時代以前とそれ以後とでは大分違ってくるのです。敢えて挙げるとすれば、政争のために左遷されていた大宰府から、雷となって平安京を襲撃してきた菅原道真ぐらいなものでしょうか。

まだ前時代の気分を引きずっていた初期の頃には、怨霊化が恐れられていた例がかなりあるのです。余談ですがわたしはそんな中で、京都の北にある崇道神社・・・まさに早良親王の霊を慰めるために作られた怨霊神社ですが、昨今は怨霊神社とはいえ、極めてけばけばとした社殿になっているところがかなりあるのですが、ここの場合は実に落ち着いた、受け取り方によっては不気味に思えるほど静まり返っていて、境内から本殿へ向かう木立の道が大変好きで、雰囲気を味わうならここだなと思いました。初期の平安時代までは、まだ前代の影響もあって、かなりの怨霊を生んでいて、そうした怨霊を慰めようと建てられた御霊神社がかなりあり、25社はあるだろうとも言われています。

写真の神社はどちらも怨霊神社ですが、歴史上の、いろいろな方の霊を慰めるために建てられております。平安時代とは言っても、はじめから雅な時代であったわけはないので、誤解なさらないほうがいいと思います。所謂高貴な方の雅な生活ぶりが喧伝される平安時代は、中期の頃で、その頃になると流石に怨霊は影を潜めて、不可思議の主役を演じるようになって、所謂「物の怪」が主役を演じるようになります。まさに物に宿った不可思議な霊であって、人の怨念が霊化したものとは大分違うものです。

まぁ、人か、物かということなのですが、大体人の場合は、仮におかしなものが登場したとしても、それが誰かは判るか見当がつきますし、まったくその正体が判らないものが襲撃してきたとしても、人々の記憶に残っている権力者の葛藤・・・誰と誰が激しく対立していたかなどということはよく知っていましたから、今起こりだした得体の知れない不気味な事件は、「きっとあのことで抹殺されたあの人が、復讐に現れたのだ」と言って恐れたに違いありません。ところが「ものの怪」というのは、あくまでも特定の人ではなく、あらゆるものに憑いて姿を現すので、得体の知れないことが多いし、さまざまな姿となって現れるので怖がられたわけです。そんな中で阿倍清明などという呪禁師は、時の権力者である藤原道長を守るために、12神将などという霊を操って、道長を狙う政敵が繰り出す「ものの怪」を倒していったのでした。

実は「ものの怪」というのは、何か心につかえるものを抱え込んでいる者が見てしまうという、精神的なもの、心理的なものがほとんどなのです。それではどうして、平安時代になるとそんなものが多くなるのでしょう。

それには思いがけない理由があったようなのです。

あの頃は地球が小氷河期に当たっていて、あまり食物関係でいいものが採れずにいたので、どうしても貴族とはいっても栄養不足になってしまって、病的な要素を抱え込んでいたと言うのです。そんなことから、見えないものが見えたり、得体の知れないものを見てしまったりするようになったのです。それが所謂「ものの怪」というものだったのだと思います。

つまり「健全な精神は健全な肉体に宿る」ということなのでしょう。

平安時代は政治的にも安定して、体制も整ってしまいましたから、古代のように国づくりで対立するような、政治的な対立、確執も少なくなっていたのです。仮にあってもスケールの小さな対立ということになってしまったわけです。そのために怨霊といわれるものが、一気に少なくなって「ものの怪」の世界になっていったのでしょう。  怨霊の時代からものの怪の世界への変化は、政治的にも混乱期から安定期への変化を表すものであったのかもしれません☆



これは旧HPで公開したものです☆