復活の世界 Faile(36)「直観力の喪失」

「遠くて近い、古代の魅力」

こんなことを言ったら、

「いい加減にしてもらいたい。今は超科学の時代ですよ」

こんな皮肉が跳ね返ってきそうです。しかしちょっとお待ち下さい。古代がそれほど現代人と、かけ離れた時代なのでしょうか。

わたしにはとてもそう思えないのです。昨今は超科学時代がもたらす、その恩恵を享受しているために、いつの間にか、欠落していってしまう大事なものがあるのではないかと、大変心にかかることがあるからなのです。

いつでも時代が変っていく時には、その激しい勢いのために、押し留めておく余裕もないまま、大事にしておきたいものまでも、容赦なく押し流していってしまうものですが、たしかに現代は、改革、改革という掛け声が濁流となって襲いかかり、とにかく前へ前へと進んで行かなくてはなりません。その先導役が、驚異の進化を遂げている科学というものです。その影響で、何につけてもテンポが速くなり、急き立てられて、前へ前へと進んでいかなくてはならなくなりました。そんな時代の勢いに抵抗するように、「スローライフ」とか「癒し」ということなどが盛んに叫ばれるのですが、なかなか大きな声にはなりません。時代のうねりに圧倒されてしまうのです。しかしこのままでいいのだろうか・・・しきりに気にかかる昨日今日なのです。

そろそろ押し流してしまった大事なものを、探し出す努力をしてはどうなのでしょうか。今のうちに拾い上げておかないと、もう二度とそれと出会う機会がなくなってしまうのではないかと思うのです。温故知新などという、お説教がましいことを言うつもりはないのですが、何を失ってはならなかったのかということを、考えてみたのです。

そしてそんなことを考えているうちに、わたしの探し物は、超科学時代と古代という、極端に環境の違う時代を重ね合わせるという大胆なことをすることで、より鮮明になってくるような気がしてきたのです。

超科学時代の、昨今の世の中の有様を見つめていると、人間が本来持ち合わせていたものを、すべてその魔力に魅せられて、委ねてしまったのではないかと思うほどです。このままでは早晩、人間が本来神から与えられていた大事なものを、完全に失ってしまった時代がやって来て、そのためにこれまでとは、まるで異質の世界に、生きなくてはならないことになるのではないでしょうか。

古代の人々は、神から与えられたもの … それを鍛えることで、自然の驚異にも立ち向かって生きていました。

それは「感性」というものです。

超科学が日進月歩の現代では、生きていく上で、不都合と思われるようなことがあれば、直ちにそれはことごとく払拭され、解決されてしまいます。望むことのほとんどは、ほとんど叶えられてしまいます。しかし古代では、とてもそんなことを期待することができません。超科学の恩恵に浴している我々現代人にとっては、不便としか言えない古代という時代だったのです。

しかし・・・。わたしは古代という時代を、現代人の価値観で、判断したり、批判したりしようとは思いません。

一般的にそんな論評をする人が多いと思うのですが、そういった視点に立って古代を見つめたりすることが、問題の核心を見えなくしてしまうからです。現代人の価値観で、古代を見つめるという、安易な発想だけは止めるべきです。

わたしが古代に惹かれたのは、何もかもが謎めいていて、あたりはほとんど驚異に満ちた世界であり、それを解決する手立てをまったく持たずに、人間たちが必死な思いで、襲いかかってくるそれらの未知の障害と、闘っていた姿に惹かれたからでした。

彼らは同じ「超」でも、「超自然」の驚異の中で生きていたわけです。まだ科学的な知識には疎く、極めて幼稚な情報しか持ち合わせていなかった彼らは、起こることのすべてを「神」の啓示だと思って、謙虚に受け止め、自らの生き方を質して、人として天下に恥じない生き方をしようと務めていました。

科学などというものの手助けを、まったく受けられない古代の人々は、自らの五感によって、圧倒的な勢いで襲いかかってくる障害を、いち早く察知して対処しなくてはなりませんでした。

天の声の示唆することを、いち早く受け止めて、生活の中で活かしていくには、先ずそれぞれの「感性」を常に研ぎ澄ませていなければ、危険からいち早く逃れることもできません。しかも彼らのほとんどは、教育もろくろく受けられない農民たちです。

そんなわけですから、古代人は皇族も、貴族も、農民も、それぞれの五感が鈍らないように務め、季節の微妙な変化でさえも、時には優しく、時には鋭く、時には緊張して向き合っていました。

互いに生きる仲間への配慮もし合って、共に未知の驚異から逃れ、安全に生き抜く工夫をし合っていたわけです。

ところが・・・超科学時代の昨今、わたしたちは、そんな鋭い感性を、持ち合わせていると言えるでしょうか。

ちょっと不安になってしまうのです。

昨今身の回りで起こる、殺伐とした事件に出会いながら、自分の身辺に起こる変化や、自然についても、いえ、人間関係についても、あまりにも鈍感になりすぎてはいないでしょうか。

わたしたちは、科学の万能ぶりに魅せられて、自らの感性を磨くことを放棄してしまいました。便利と言うことは、人間本来の感性と引き換えにして、手に入れるものなのでしょうか・・・。

わたしが敢えて古代を持ち出したのは、まだその感性というものを、大事にしていた昭和という時代に、青春時代を過ごしていたからかもしれません。超科学時代の現代人には、想像のつかないほどの楽しみもあったし、むしろ日本人として失いたくない、美しいもの時にはあまりにも素朴なものではあっても、温かなものが、いくつもあった時代でした。人間が本来持っていた「感性」というものを、最大限に発揮しながら、暮らしの不便さと戦い、驚異と戦って、困難を克服しながら、未来に夢を描いていました。

わたしたちは時代の進歩と同時に、神が与えてくれた、感じるという、繊細なものを、失っていきつつあるのではないでしょうか。

超科学時代の現代人は、さまざまな科学技術によって得る情報を、直ちに、さまざまな形で告知されて、市民生活に支障のないように配慮されています。ほとんど驚異と言われるものさえも存在しなくなってしまっています。

至れり尽くせりの時代です。こんな状態ですから、ちょっとぼんやりとしていても、生きていくには、何の心配もありません。周囲の変化についても、無関心、無感動でも、何にも差し障りはありません。情報はもたらせられるものであって、特に神経を使って探し出そうとしなくてもいいし、それほどぴりぴりとしていることもないまま、生活に事欠くことはありません。 これでは「感性」なだというものを、特に意識する必要もなくなってしまうはずですね。

自分に関することがそんなわけですから、他人のことなどについては、余計に無関心になり、感じ取るなどということがなくなってしまうのかもしれません。時の流れの速さについていくのが精一杯で、とても人のことに気を使っている余裕もないのかもしれません。これでは自然も、人も、他人がさり気なく発信している情報などには、ほとんど気づかず、関心を持たずに行き過ぎてしまいます。現代人は、もっぱら超科学の判断だけを受け入れて生きています。

その分、人間が本来持ち合わせていた、感性とか感覚というものは鈍化してきているように思えてなりません。

昨今、目を背けたくなるような事件が、次から次へと起こっていますが、社会でのことも、家庭内でのことも、人間関係でのことも、すべてについて敏感であった古代人のような、鋭く、繊細な感性を、もう一度取り戻す努力をし始めなくてはならないのではありませんか。いや、少しでも古代人のそれに近づけるように、心がけなくてはならないのではありませんか。そしてそれは、正に今しかないと思うのですが・・・。何もかも便利になって、人間が何もしなくても用が足りる時代になってきています。だからこそ、それに浸りきってしまっていていいのかと、しきりに思う今日この頃なのです。

もう一度自然の微妙な変化に、驚いたり、感動したり、喜んだりするような、素朴で繊細な感性を持ち、周囲への気配りも、自然に行えるような社会を取り戻したいものです。

遊びの感性は磨かれて、次から次へと楽しいことが生み出されて、共有する時代になっていますが、人間として失ってはならない、「心」の「感性」が、さっぱり磨かれていないのではないでしょうか。

もう一度、わたしたちは、古代という時代について、じっくりと考え直してみる必要があるのではないでしょうか。きっとその時、わたしたちは、先人たちが、何を大事にしてきたのかということにも出会えるし、その息遣いにも、出会えるような気がするのですが。

「遠くて近い古代」

現代とは遥かに遠い古代ではあるのですが、超科学時代の我々に、ちょっと立ち止まって、生き方を点検してみたらどうだろうかと、呼びかけているように思えてならないのです。

「今こそ、真の(感性)の復活を!」

新しい時代を生きる人たちに、是非、真剣に考えて頂きたいと思って書きました☆



これは旧HPで公開したものですが、それを整理したものです