交わる世界 Faile(21)「さよなら、思い出の地」

わたしは大学を出ると直ぐに、東京の下町である墨田区向島の実家を出ると、作家を夢見てしばらく田園調布の四畳半で、一年ほど暮らしました。つまり独立したわけです。

やがて、何とか作家の卵のような形になって暮らし始めたのが、大都会の繁華街である、東京の赤坂一ツ木通りにある、今風に言えばマンションでした。田園調布のアパートが、新婚さんに買い取られてしまって、そこに入っていた住人たちは、直ちに出るようにということになり、慌しく転居先を探し始め、新聞の広告を頼りにして探したのが、赤坂の一ツ木通りからちょっと入ったところにある鉄筋のアパートだったのです。

一階はふぐ料理の店で、わたしが入居したのは中二階のような二階でしたが、更に奥には歌舞伎の三代目市川猿之助さんのアパートがありました。そこからは、夕方になると、赤坂芸者が、人力車で御座敷を目指して出かけて行きました。

なかなか雰囲気のあるところでしたが、そこはお不動さんの境内ですが、玄関先には墓がありました。

まだこの赤坂はゆったりとしていて、毎月、縁日などというものが行われて、夜は大変賑わっていた頃のことでした。

入居したばかりの頃は、どんな人が住んでいるのかもほとんど判らないままでしたが、間もなくここはほとんど夜の仕事をしている女性が住人で、いわばここで日常生活を営んでいるという人はいないと言うことが判りました。言ってみれば、夜仕事を終えて帰った後で、寝るだけといったところとして利用しているところだった訳です。

引っ越して間もなく、隣の方から、ちょっと手伝ってもらえませんかと言う声がかかりました。もちろん隣人とは仲良くしておこうという気持ちから出ていったのですが、冷蔵庫を家に入れるのを手伝ってほしいということでした。ひと目見ただけでも、水商売の人だと判る、粋な女性でした。やがて知ったことですが、やはり彼女は赤坂の芸者さんでした。その他、クラブのホステス、コールガール等々、元芸者であったという大家さんを筆頭に、住人は女性ばかりでした。いや、一人だけ易者がいましたが、わたしは利用したことがありませんでした。

アパートは実に狭いところでしたが、コンパクトにまとまっていて、風呂までついているところでした。しかしここでわたしは、独身時代、結婚、子供の出産と、実に7年間も住むことになってしまったのでした。しかしここで近くのTBSテレビ、ラジオで仕事をするようになったし、ラジオ関東・・・現在のラジオ日本や文化放送の仕事もするようになり、更に特撮の円谷プロダクションで、ウルトラマンなどの作品を書くようになったのでした。放送関係の友人や、学友たちが、大変交通事情のいいところだったところから、連日のように、早朝から押しかけて来ました。そんななかでわたしは隅っこで原稿を書いていたのですが、友人たちは勝手に集ってお喋りをしていました。まぁ、青年たちの集会所といった状態でしたが、最近になって、あの頃を懐かしんで、一度みなで会いたいものだという人が多くなってきました。

あの頃の青年たちも、みなその青春時代を懐かしむ年齢に達したと言うことなのでしょう。

やがてわたしは世田谷の駒沢公園近くの深沢というところへ家を建てて移転しました。丁度、「宇宙戦艦ヤマト」を書き始めた頃のことでした。それが現在の家で、ここでその後の仕事は積み重ねられていったのです。

とにかく毎月家賃を払うという不安な生活から開放されて、ようやく精神的に落ち着いて仕事ができるようになったわけです。その時からあっと言う間に三十数年が過ぎてしまって、家も老朽化してきましたので、つい私は先年終の棲家を建設することにしたのでした。そんな矢先に、赤坂の「末広荘」は消滅してしまいました。

思い出多いすべての出発点であった原点は、ついに消え去ってしまったわけです。ここをさまざまな肥料(こやし)にして、わたしは飛び立っていったのでした。某出版社からは、あの青春時代をエッセイ風にまとめませんかというお話もありましたが、ついにその約束は果たさずに終わってしまったのでした。まさに、さよなら、思い出です。☆

赤坂不動尊の写真
末広荘の写真
思い出の202号室の写真
工事現場の写真