交わる世界 Faile(22)「死語の話」

先日、出身大学の150年祭へ招かれたのを機会に、しばらく会うこともなかった友人たちと、出会うことができて嬉しい一日でした。

久し振りの出会いの対話は、みな健康を気遣うことから始まり、無事を祈ることになるのは、年齢から考えて当然のことかもしれませんが、やがて話題の行先は、夫婦に関する話題になりました。これも当然と言えば当然な成り行きだったかも知れません 。少なくとも昨今の女性・・・仮に年配の方であっても、家に閉じこもっているような人は、ごくごくまれで、ほとんどの人は、どこかへお出かけになっていらっしゃるのではないでしょうか。我々よりも古い世代の夫婦であったら、ほとんどの人は夫優先で 、妻はそれにつき従うというパターンがほとんどだったと思いますが、私たちの世代になると、少なくとも戦後の民主主義のベターハーフという考え方を理解できるし、それを実践している人たちも多いように思います。つまり日常生活においても、夫婦共通の大事については協力して行うけれども、その他については、通常はお互いに強制しないことを決まりにして暮らす・・・つまりお互いの立場を、自分の都合で拘束しないようにしているご夫婦が多くなっているようです。

それぞれ自由な時間を持って、人生を楽しむようになってきているということなのですが、あれこれと夫婦談義をしているうちに、友人は思いがけないことをいい始めました。彼はNHKの報道関係にお務めをしていたのですが、元は私と同じ文学部で、よく渋谷の喫茶店あたりで、コーヒー一杯で何時間も文学論を楽しんでいたこともあったのですが、最近はさまざまなレジャーを楽しみながら、その時、その時に短歌を作り、楽しむようになったというのです。

ところが、そこでです。

ベター・ハーフ・・・つまり奥さんは、奥さんで自由にお友達と生活を楽しみ、彼は彼でまた友人たちと楽しんでいるという恵まれた喜びを短歌に託してみようとした時に、ふとおかしなことに気がついたそうなのです。

それが今回のお話です。

時代の変化でしょうか、ライフスタイルの変化でしょうか、価値観の変化のせいでしょうか、短歌を創作する時に、妻を詠い、夫を詠う時、実に不自由になってしまったと告白するのです。 実は先刻から、私も大変書きにくさを感じているのです。ベター・ハーフなどと横文字を使うのもそのためなのですが、その呼びかけ方に引っかかってしまうというのでした。確かにその通りで、「奥さん」「かみさん」「連れ合い」「女房」「家内」・・・いろいろと呼び方は多かったのですが、時代がすすんできたこともあって、これらの言葉はどうも不適格になって来てしまったのではないかというのでした。

これまでそんなことを突き詰めて考えてもみなかった私は、彼の指摘に,思わず絶句して、頷くばかりでした。一般的に使われている「家内」も「女房」も、不適ではないだろうか。もう家を守ってじっとしているというタイプの女性は、ほとんど存在しない・・・もし存在しているといっても、ごく少数派になってしまっているのではないだろうか。

「奥さん」「かみさん」「連れ合い」などという言葉も、もう大分時代の進化から考えると、古色蒼然としていて、あまりぴったりとしていないような気がしてくるのではありませんか。

友人は妻を素材にした短歌を作る作業の中で、そんな問題に突き当たっていたのでした。何気なく通常使われていたり、使っていたりする言葉の中でも、時代の進展に伴って、「死語」に近くなってしまった言葉が、かなりあるのではないかと思ったのでした。あなたの周辺に、そんなことは存在してはいませんか。ちょっと注意深く探ってみるのも面白いかも知れませんよ☆