交わる世界 Faile(23)「ディベート考」

漫才ブームというよりも、いわゆるお笑いブームのようなものがつづいています。世界的な不景気も、その背景にあるように思います。とにかくオオバーにでも騒がないと、意気消沈してしまうということかも知れません。やたらに大騒ぎをしています。思い切り馬鹿馬鹿しいことでもしていないと、気が滅入ってしまうというのでしょうか。テレビでは、どのチャンネルを回しても、じっくりと落ち着いて見る番組よりも、どちらかというと、大騒ぎしている番組か、おバカさんが登場して、視聴者に優越感を持たせるような番組が、次々と送り出されてきます。

このところ暫く前から、落ち着いてものを考えたり、話しあったりといった風潮は、すっかり翳を潜めてしまいました。何か無理やりにでもテンションを高くして話し合わなくては、空気が沈殿してしまって仕様がありません。そんなことから、会社の会議なども、所謂ディベートといわれることが行われると、極めて険しい空気になったりすることが多いようです。むしろ、そうした空気の中で話し合うことに意義があり、効果も期待できるといった風潮があります。

しかし・・・。

何かにつけてテンション高くという、社会的な風潮をそのまま反映した会議や、話し合いというものに、実りがあるのでしょうか。私はむしろ弊害のほうが多くなってきているのではないでしょうか。

緊張感が必要であるということは、認めますが、テレビのバライティ番組でもないのに、声高に議論するようなことが必要なのでしょうか。

今回は、そんなことを取り上げてみました。

私たちは、何かにつけて、じっくりと話し合う、お互いの考えをぶつけ合うという風習を、いつから失ってしまうようになったのでしょうか。昨今は、あちらでもこちらでも、口角泡を吹いて叫び合っているとしか思えない光景を見聞きします。

その結果、感情的に高まった気分が抑え込めなくて、やがてその結果が遺恨というような険しい感情のぶっつけ合いとなり、考えたくもない凄惨な結末にもなっています。 あなたの周辺には、そんな高家は見当たりませんか。

特に、会社の中での議論・・・つまりディベートという場合、または公のディベートの場では、声高に叫ぶ者の意見が先行してしまい傾向にあるのではありませんか。

とくにコミュニケーションを必要とする場においては、こうしたやたらにテンション高いやり方では困ったことが起こります。相手はやたらに声高なものに抑えつけられて黙ってしまいますが、それだからと言って、納得したとは言えないからです。

昨今の風潮を見ていると、声高なものだけがのさばっているように思えてなりません。私たちは、いつからじっくりと穏やかに話し合うという習慣を、忘れてしまったのでしょうか。

わたしたちのもの書きの世界では、よほどのことがない限り、そんな機会はありませんが、お勤めの経験のある方は、日常的に行われてきたことでしょう。それで、経営の方向付けが行われたり、営業の方針が決定されたりしてきました。恐らくこれからも、ディベートの機会は日常的にあるはずです。

そろそろ、近年の流行りであるテンション高くという風潮を、じっくりと、落ち着いてということに、改めてみてはどうでしょうか。

時代のテンポに合わないなどといわないで、声高なものだけが幅を利かすような傾向に、ちょっと待ったをかけたい気分でいるのですが・・・☆