観る世界 Faile 1 「忘れられないこと」

長いもの書きの生活の中には、忘れられない思い出ともいえる出来事がいくつもありますが、今回はその中での一つともいえることです。

わたしが一番放送作家として活動していたのは、1960年代から1980年代までの30年間でしたが、とにかくさまざまな体験をしましたし、貴重な情報も手に入れることができました。そして更に、その後の小説執筆活動の、大きな原動力ともなりました。

丁度、放送作家から作家へと、作業の場を移し始めた頃のことです。東京新宿のホテル・センチュリー・ハイアットで、放送作家30周年という記念の祝賀パーティを開いたことがありました。丁度その頃は、作家へ転進して間もなくのことで、「宇宙皇子」がかなり好調に売れ始めていた頃のことですから、映像界、出版界のどちらからともなくパーティを開いたらという声が上がり、わたしも一つの区切りとしてそんなこともあっていいと思い、決心いたしました。決心をするもう一つのきっかけとなったのは、わたしの原作による「ウインダリア」というアニメーション映画が完成したところでもあり、その資金源であったプロダクションの後押しもあって、一気にプロジェクトチームができて、盛大な催しとなったのでした。

とにかく映像時代には、幸運にもかなりのヒット作品に恵まれたばかりでなく、大体それらの作品のメインライターを務めたということもあって、かなりの人の協力もあって実現したものです。前述しましたように、映像関係者、出版関係者、弟子たちが集まって推進してくれたものです。幸いなことに、このホテルの総支配人になっていたのが、わたしの先輩であったということもありました。彼は前職である赤坂東急ホテルの支配人であった頃、丁度わたしが「ムーミン」などのアニメーションを書いていた頃、夏の盛りには暑さを避けるために、ホテルへ避難して書いていましたので、住居であったアパートに近い赤坂東急ホテルを使っていたのですが、回ってくる伝票で、わたしが来ていることに気がついた彼は、いろいろと便宜を図ってくれたりして下さいました。ところがこのパーティが企画された頃、何と彼は新宿のホテル・センチュリー・ハイヤットの総支配人として仕事をしていたのです。そんなわけで、またまた彼のお世話になってしまったわけですが、親しくさせて頂いていた彼は、脳梗塞に襲われてしまい、闘病の後に今年他界してしまわれました。話がそれましたが、その後小説の執筆のために、指定して缶詰になったホテルが、この新宿のホテル・センチュリー・ハイヤットでした。

わたしは和室でしたが、聞くところによると、同じ時に赤川次郎さんは洋間を好んで使っていたようです。 わたしは小説を中心に書くようになってはいましたが、もちろんこれで一切放送と縁を断つということではありませんでしたが、しかし活字世界への挑戦という気持ちから、わたし流に区切りをつけてのパーティでした。

ところが丁度その日は、全学連の過激派が、総武線の浅草橋駅で騒動を起こし、混乱があったので、大分予定していた人が来られなくなってしまったという不都合もありました。しかしそれでもなお五百人近い人が集って下さったことは、大変嬉しいことでした。そしてもう一つ嬉しかったことは、あの漫画家の手塚治虫さんが、多忙なスケジュールをやりくりして、わざわざ関西から駆けつけて下さったことは、予期せぬ喜びでしたが、お客さんたちも大喜びで、サインをもらっていたようでした。

ところでこのパーティのきっかけとなった「ウインダリア」という映画作品は、わたしの原作を、若いスタッフが集まっていた要プロダクションが中心になって制作された作品ですが、幻想的なアクション作品ですが、大変シリアスな物語でした。

戦乱の絶えないある国で、戦いに出た若者を待っていると誓った少女が、亡霊になってもその約束を守りぬいて、自宅のある村で待っているという純愛映画なのですが、この時、キャラクターデザインを手がけていたのが、わたしの小説「宇宙皇子」のイラストを描いてくれていた(いのまたむつみ)さんでした。

どの世界でもありがちな話ですが、「宇宙戦艦ヤマト」「機動戦士ガンダム」が大当たりしたことがきっかけで、テレビアニメの世界は、ほとんどが宇宙ものになってしまいました 。このようにどこの局を回しても宇宙を背景にしたSFばかりでは、視聴者も飽きるのは止むを得ません。

(いつまでもこれでいいのか)そんな思いを放送局にぶっつけて、猛省を促したいという気持ちがあって企画した作品でした。その後この作品は、関西地区ではOLの好きな作品のNO1になりましたが・・・。

こうした小説の成功と映像の完成記念を兼ねた、大きなパーティが、放送作家30周年の大パーティということになったのですが、実はそのきっかけとなったのは、そのちょっと前あたりから、放送界は全体的に沈んでしまったことが引き金でした。

あの超ヒット作品である「宇宙戦艦ヤマト」「機動戦士ガンダム」の影響で、テレビアニメの番組は、出てくる番組、出てくる番組ほとんどのものは宇宙を舞台としたSF物で、これではそのうち飽きられてしまうだろうと、不安になっていました。 案の定、数年後にはすっかりそれらの番組は飽きられてしまいました。同じ頃ドラマ番組も行き詰っていたことから、放送界全体に勢いがなくなっていってしまったのです。そんななかでわたしは、まったく異業種である出版への転進を決心したのでした。

今回こんなことを、どうして書く気になったかというと、最近の放送を見るにつけて、何もかも新しくなっているはずなのに、昔とさっぱり変らないある現象に気がついていたからでした。

昨今は何といってもお笑い番組中心で、どのチャンネルを回しても、お笑い、お笑い、そうでなければバライティ、バライティです。こんなことをしていると、また飽きられる時がやってきてしまうでしょうね。しかしそれでも、放送局は、行き着くところまでは言ってしまうのでしょうね。その間に能力のある人が、異世界へ移り住んでしまわないかと心配な毎日です☆

PAGE PAGE 1 (記念の品の一つでした)

放送作家生活30周年記念の写真