思う世界 Faile 6 「落葉帰根」

ごく最近の報道によると、自殺者の数が三万人を越えているそうです。しかもその中で若者の数が、八百八十人を越えているそうです。その原因が、ほとんどの場合ウツなのだそうです。そしてそうしたことを引き起こす要因は、話し相手がいないということなのだそうです。しかしそれにしても、どうしてそのような状態になってしまうのであろうかと、考えてしまいます。

現代の若者の置かれた状態と言うのは、我々が育った時とは大分違っているので、簡単にあれこれと言うことはできませんが、確かにかつての連帯感を持っていた我々の世代、その次の群がる団塊の世代までは、仲間と言う存在が大変大事な鍵でした。ところがそれから後の世代は、干渉を一切嫌って、自由気ままに生きようとする平和世代、「あっしには、かかわりのねぇことでございます」という木枯紋次郎型の、自分と関係のないことにはかかわらないという世代から、更に、我がままな鍵っ子世代、周囲とは一切かかわりを持たずに、単独で行動していくという個の世代などがあって、ようやく昨今は「夢世代」などと言われるようになって、希望が見えてきたかなと思っていたのですが、若い人の自殺が多くなってきているというデーターが出てきています。

経済的な格差があるということは理解していますが、若い人に「夢世代」といわれる者がいると思われる一方で、まったく対極にあるような「ウツ世代」が広がるという格差が喧伝されています。その要因が対話の欠落と言われていますが、もう一つは自分という存在に、自信が持てないことによる現象なのではないかとも思われるのです。

かつてわたしは、歴史エッセイ「天翔船に乗って」という著書で、「落葉帰根」という話を書いたことがあります。同じテーマで「宇宙皇子(うつのみこ)」という歴史小説でも、そんなことを話に組んだこともありました。

「いじめ」「対話欠落」「ウツ」等々の理由で、行き場を失い、自暴自棄になった結果の行為を見聞きする度に、「ちょっと、待って」と言いたくなってしまいます。

若者は自分が存在することについて、あまりにも自信がなさ過ぎるのです。彼らは、あまりにも自分自身について、短絡した結論を下しすぎるのです。

「この世に存在する命で、(無駄な命)などというものはないのですよ」

この世に存在するものには、自ずと役割分担というものがあるはずなのです。

それを無視してしまったり、見当はずれなことを望んでも、決していい結果は得られません。

わたしたちは、まず自分に与えられた使命というものに気がつかなくてはなりません。しかもそれは、それほど大変なことではないのです。それなのに、多くの場合は、まったく見当はずれなものを求めて、じたばたとしていることが多いのです。自分の使命というもを知らないで、自信を失ってしまっていることが多いのです。

ちょっと飛躍した説明になるか判りませんが、木の葉として生命を得ながら、木の幹を目指して、じたばたともがいているようなものではないでしょうか。

木の葉は秋になると枯れて散ってしまい、如何にも邪魔なもののように言われたり、扱われたりしますが、実はそれらの葉こそが、樹木を支える大事な役割を担っているのです。 樹木というものは、その中心となる幹と枝葉から成っていて、決して幹だけとか、葉だけという樹木はありません。お互いにそれぞれの役割を果たし切ることで、立派な樹木として存在しつづけているはずなのです。

昨今の風潮を見ていると、幹だけが目立ち過ぎて葉の存在に目を留めないようなところもあります。確かに幹は目立ちやすいと思います。そのために多くの人は、そんな幹に憧れてしまいます。そしてそうなれない自分に失望して、自信喪失。その結果悲劇的な選択をしてしまいます。樹木の葉が、地味で目立たないからといって、意味のない存在なのでしょうか・・・。その樹木を存在しつづけるためには、立派な幹を育て、維持していかなくてはなりません。そのためには地を肥やす必要があります。その役割を果たしているのが木の葉だったのです。

緑の季節がすぎて枯葉となって散っていっても、決して無駄ではないはずです。邪魔者扱いをすることもありません。木の葉は幹が立派に育っていくための肥やしとなって役に立っているのです。散ったまま朽ちて樹木の根元に留まり、肥やしになったり、落ち葉焚きなどという、秋の風物詩ともなる光景を彩りながら、やがてその灰は樹木の根方へ撒かれて、肥やしとなっていきます。

樹木の生命を保ちつづけるためにも、しっかりとした幹を持っていなくてはなりませんし、そのためにはどうしても木の葉の存在を忘れるわけにはいきません。木の葉は目立たない存在であっても、決して「どうせ木の葉なんだから・・・」などという、不貞腐れるようなものではありません。彼らは彼らなりに、誇りを持って緑の季節を生き、枯葉となって散っていく時も、自分たちが幹を育むのだといった、誇らしい気持ちを持っているようにも思えます。

この世に存在するもので、無駄な命は一つもないということの論拠でした。そんな趣旨のエッセイを書いたことがあったのですが、それが中学生の「道徳」の教科書副読本にもなりました。しかもこれは再版を繰り返して、もう6年以上もの間、使われてきています。これまでこうした教科書などについては触れる機会がありませんから、はじめて知る方も多いと思いますが、若い人とのお話の中で、こんなことをお伝え頂けたらと思って書いておくことにいたしました☆

中学道徳教科書の写真
落葉帰根の写真