思う世界 Faile 5 「変化する理解の仕方」

時代によって、物事の理解の仕方には、随分変化があるものですね。

時代の感性というものでしょうか・・・。大衆が、物事の変化にどう受け止めるかということですが、時代時代で大きな違いが出てきます。

昨今は政治の実権が大衆のものとなりつつあり、さまざまな文化面でも、経済的な営業面でも、すべてが大衆化してきています。つまりあまりハイレベルなものを狙うと、その真意、真価が理解して貰えないために、まったく無視されて失敗してしまって、大きな広がりとはなりません。

それでも昨今はブランド志向とかで、やたらに高価なものを買いあさる人々があるようですが、決してそれが一般的であるとは言えないでしょう。

全体的ということで言えば、すべてが大衆化してきたということが言えると思うのですが、その大きなきっかけになったのは、何といっても「ビジュアル化」ということではなかったでしょうか・・・。

すでにそれに関しては、「映像の部屋」で「原作提供者の変化」というテーマで多少触れましたが、もうちょっと深く突っ込んで書いて見ることにしました。

一般にわたしたちは、物事を理解するには、「見て理解する」「聞いて理解する」「触れて理解する」「感じて理解する」「考えて理解する」、おおむねこの四つの方法によって行っていると思うのですが、この中で、何と言っても一番手っ取り早い理解の方法は、「見て理解する」「聞いて理解する」「触れて理解する」という三つの方法でしょう。これらは直接的ですから、年齢、能力にかかわらずに、対象物の理解がし易い方法ですが、それに対して「感じて理解する」「考えて理解する」という方法は、前者の方法と比べるとかなり年齢と能力によって差が生まれてきてしまいます。しかもこの二つについては、神経を尖らせたり、頭をかなり使わなくてはなりません。

日本の場合は、どちらかと言うと後者の方法に力点が置かれたまま、長いこと修整もしないままでしたが、時代の変化によって、それまでの習慣を改めようという動きが激しくなったのは今から20〜30年ほど前からだろうと思いますが、とにかく「ビジュアルに」ということが盛んに叫ばれるようになりました。

それまでの「読んで理解する」ということがベースになっていた時代では、とにかくものを理解するためには、窮屈でかなり高度の能力が求められるために、誰にも親しまれ、理解して貰うということのためには、かなりの弊害を生じてしまいました。時にはそのために差別さえも生んでしまうことにもなってしまったようです。しかしそうしたやり方のために、これまでは人々の理解度の広がりに限りがあって、そのために広く浸透させるということには限界がありました。

そんな一般的な理解の仕方を変えようとしたのが、「ビジュアルに表現しよう」ということでした。

わたしなどは大変いい試みだと思っていました。

「ビジュアル化」という運動は、それまでのやり方を考えると、かなり大きな改革だったのです。はじめはかなり戸惑いもありましたが、やがてその流れはかなり加速的に浸透していきました。

もう今ではあらゆる分野で行われるようになりました。チラシ広告はもちろんのこと、教科書も、公文書なども、とにかく見て理解できるように工夫されています。実に判りやすくなりました。

しかし・・・。

ここまでくると、ちょっと考えなくてはいけないことが起こってきているように思います。

昨今の国語力の低下という問題です。

その問題は、物事に対する理解力不足ということに影響を及ぼすようになってきています。

見たままにしか理解できない。つまりその奥に潜んでいるものがまったく読み取れないという弱点をさらけ出すようになってきてしまいました。そしてそういうことが引き起こすことが、社会問題化するようにもなってきています。

更に時代は、個の時代になってきています。お互いに連帯の中で暮らしてきた時代と違って、自分以外の存在に対する理解がほとんど陰を潜めてしまいました。

そうした風潮と、見て判る・・・見て判る程度のことでないと理解できないということが影響しあって、どうもあまりいい雰囲気をかもし出していないように思うんです。

長い時間をかけて、見て判る、見て理解するということに力点が置かれすぎてきたために、「感じて理解する」「考えて理解する」ということが、いささか疎かになってしまった結果が出てきてしまったように思うんです。

あまりにも判りやすいことを狙いすぎたために、ちょっと複雑なことはまったく理解できないし、理解しようともしなくなってきてしまっているんです。

すべてが大衆化するということはいいことなのですが、ちょっと難しいこと・・・ちょっと高度なものは毛嫌いしてしまって理解できなくなります。ほとんどはそういったものは、無視してしまうという風潮を生み出していってしまいます。

最近の国語力低下という社会問題は、そんなところから起こってきたことではないでしょうか・・・。

かつて笠信太郎というジャーナリストの書いたベストセラー・エッセイに、「ものの見方について」という本がありましたが、その中で彼が提起した問題は、「歩きながら考えるか」「立ち止まって考えるか」「走りながら考えるか」ということだったように思いますが、それはそれまでの古い体質から抜け出そうという市民の生活感覚の変革を訴えるものでした。それがかなりたってから、「ビジュアル化」という運動が起こってきました。それまでの理解しにくいさまざまな伝達手段を、もっと判りやすくしようということから、「見て判るもの」に変えようということになりました。時代のうねりというものでしょうか、それが一般国民に受け入れられて、あらゆる分野で、今日ある姿の基礎が敷かれていったのです。たしかに告知ということでは、かなりの成果を挙げたと思います。「判りやすく」という方向は、決して悪いことではなかったと思うのですが、難しいこと、高度なことについては、まったく受け付けない、無視をしてしまうという欠点を、同時に進行させていってしまったように思うのです。「判りやすい」ということを定着させようとすることに性急で、問題点を無視してきたツケが回ってきているように思います。

昨今、理解力が低下するのと、個人主義の浸透ということが進行するのと同時に、険悪事件が多発してくるというのは大変気がかりなことです。

相手のことはまったく気にしないし、理解しないし、いや、できないと言ったほうがいいかもしれません。自分の感情の赴くままに行動してしまうような事件が続発しています。とにかくそれを解消するためには、まずその理解力を低次元なれベルから多少引き上げていかなくてはならないのではないでしょうか・・・。

今こそ暫く忘れ去っていた、「感じて理解する」「考えて理解する」ということを復権しなくてはなりません。

何度も言いますが、さまざまなことが判りやすく、理解しやすいと言うことは大変いいことなのですが、昨今の世相を見つめてみると、いささか「考えて理解する」ということが無視されたような事件が送りすぎます。まったく自分の都合でしか判断できない、相手の状態、立場を、「感じて理解する」ということを無視した事件も多すぎます。

感情の表現が、「切れた」などという実に単純な表現しか出来ないということは、結局理解が浅いということから起こることです。

理解力低下は表現力の低下にも通じます。

昨今、信じられないような事件が続発しているのは、何とも情けないとしか言いようがありません。

政治家は国の行く末を真剣に考えて、青少年の教育にはもっともっと力を注いで欲しいものです。その時その時の都合ではなく、教育にこそ百年の大計が求められるような気がするのですが・・・。とにかく大衆化ということはいいことだとは思うのですが、さまざまな面がレベルダウンしてしまうということとは違うはずです。

30年前あたりから起こった、もっと判りやすくという運動は、現代に至って振り返ってみなくてはならないところに差しかかっているように思えてなりません。このあたりで修整をしておかないと、大衆化ということはレベルダウンと同意語になってしまうように思います。☆