思う世界 Faile 4 「不夜城について」

都会から夜がなくなった。

そう感じるようになったのはいつごろからだろうか・・・。

簡単に言えば、照明技術の目覚しい進化と照明器具の開発が盛んで、ついに都会から夜を追い出してしまった頃からでしょうね。とにかく繁華街などは真昼のように明るくて、つい夜が更けていくのも忘れてしまうほどです。

そんな光景は東京ばかりでなく、名古屋、大阪をはじめ各都市の中心地は、ほとんど同じような状態になってきています。現代人は田園地帯の人を除いて、すっかり夜を失くしてしまったとしかいいようがありません。

昔からこうした繁華街を評して、人々は不夜城などと言いました。如何にも都会が華やかなところであり、輝かしいところであるかのような、錯覚をさせるような記述がありました。まさにそのとおりだなと思います。特に若い時には、仲間と遊んでいても、ついつい夜更かしをしてしまったものです。あの頃は夜などがなければいいのにとさえ思いました。好きな女性と話し込んでいたりしていたら、なお更のこと、夜が憎らしいとさえ思いました。昼のように明るければ、家に帰らなくても済むのにと思ったからです。しかし今はどうでしょう。勝手なもので、あれほど夜を疎ましく思っていたのに、昨今は夜が夜でなくなっていることに、疑問を感じるようになってきているのです。昼を思わせる明るさで、塒へ帰らなくてはなどと思う、きっかけがなくなってしまっているからです。

都会が不夜城であるようになってから、人は夜空を見上げる機会を失ってしまったのではないかということなのです。気になるのはもっぱら昼の太陽の存在だけで、夜空には月があるということを、すっかり忘れてしまったのではないかということなのです。

そうしたことが、都会に生きる人にどれだけ影響を及ぼしていることか・・・。

もちろん力感があって精力的で、きらきらとして、嫌でも目立つ存在の太陽に対して、静かで、穏やかで、控えめな存在である月は、どちらかと言うと目立たないばかりか、時には忘れられてしまうことすらあります。太陽のように、ちょっとでも顔を出さないと、さまざまなことに顕著な影響を及ぼすので、ほとんどの人はその存在を、忘れるようなことはありません。それに対して月のほうは、それが出ないからと言って、人はそんなに騒ぎ立てるようなことはしません。だからと言って、月がさまざまな生命体に対して、何の影響も与えることがないのかと言えば、決してそんなことはないということぐらいは、誰でも知っているはずです。ところが月は出なくても、人はそんなに騒ぎ立てるようなことはしません。何といってもその存在が地味だからにすぎません。

照明の発達を促すことで、人は闇からの解放を求めました。その結果不夜城を具現したのです。その結果、人はその代償として、いつの間にか月と言う存在を忘れてしまいました。

昼と太陽、夜と月という対比よりも、光と太陽、闇と月といった対比のほうが、その特徴が際立ってくるのではないでしょうか・・・。その闇を追放してしまったことが、結果的に月の存在を見失ってしまったのです。

その昔・・・と言っても、それほど遠い昔でなくても、わたしの少年時代でも、夜は所謂漆黒の闇が訪れるのが常でした。何と言ってもその頃は、まだそれほど照明技術も発達していないし、経済的にも豊かではなかったので、とにかく夜の活動を可能にしてくれた貢献者が月だったのです。闇に包まれる夜の、唯一の明かりであった月の存在ほど有難いものはありませんでした。

都会の街路はもちろんのこと、田舎の道などは、夜ともなると、まさに漆黒の闇が訪れて来たものです。そんな時、天空に月の姿を見た時の何とも言えない安堵感は、今でも忘れられません。しかも簡単に明かりが得られなかった時代では、あの月の光がどれだけ人を救い、慰めたことか・・・。

考えてみると、こんなに夢中で夜を追放する必要があったのでしょうか・・・。

夜が夜であった頃には、さまざまなロマンを生みました。何もかも白日の下に曝け出してしまっては、すべての光だけで陰が描けません。

太陽のような強烈な個性を持っていない月ですが、西欧では満月・・・フルムーンは穏やかなダイアナが支配し、新月・・・ニュームーンには凶暴なヘカテが支配するという神話があって、その威力が人に及ぶ様子を、いろいろな形で表現してきました。新月の夜には人が野獣化して咆哮したり、人を襲ったりする話を伝えてきましたし、日本でも古い時代、大和地方では歌垣と言って、気持ちが高揚する満月の夜に男女が出会って歌い、踊り、交遊する話が残っていますし、沖縄でも、万座毛の原で男女が歌い、踊り、やがて気のあった者同士で闇の中へ消えていったという、如何にもおおらかな古い時代のロマンを伝えております。つまり月には穏やかそうで静かな存在ではありますが、かなり人には影響を及ぼしているということです。

近代になっても、歌になったり、小説になったりして親しまれてきました。

ところが科学の驚異的な進化によって、生活さえも一変させてきました。そしてそれにつれて、人は闇から開放されると同時に、月と言う存在をすっかり忘れてしまったようです。強烈な存在感を示している太陽には関心をもつけれども、大変控えめで地味な存在である月には、あまり興味を持たなくなってしまっています。

日本歴史の中でも、所謂神話の時代に当たりますが、太陽神である天照大神から指示されて、月読命は素直に従って、銀河の辺境へやって来ました。荒れ狂って、海を統治するように支持されたのに、それに従わずに母を追って出雲国へ行った須佐男命とは対照的で、月は荒魂に対して、和魂の代表のような存在といったところでしょう。つまり陰陽の代表で欠かせない存在なのに、大変残念なことです。どうも昨今は、照明の発達によって、多くの都会人は夜を失っているのではありませんか。昨今の事件の報道に触れていると、殺伐としてやりきれないものが多いように思えます。

そんな様子を見ていると、何か目立つものにばかり目がいってしまっていて、ひっそりと静かにではあるけれども、重要な役割を果たしているようなものへの配慮が足りないというか、まったく関心がないように思えてなりません。

タレントブームもその一つで、やたらに彼らに関心が集まり、無節操にその真似をする者が多いようです。憧れではあっても、それが自分と同じレベルの存在だなどと思い込むのはおろか過ぎます。タレントはあくまでもタレントです。彼らは目だってナンボなんです。そのところを勘違いして、矢鱈に目立ちたがる者が多くなって、タレントもどきが多くなってしまうのと同時に、地味でもこつこつと存在感を増していくと言ったタイプの人が、押しのけられがちになってしまうのは、とても残念です。その極端な例が、目立ちたいからという理由で弱者をいたぶったり、時には犯罪へ走ったりする愚か者の事件が多すぎます。

彼らの傍若無人ぶりは、どこかでその原型をみたような気がするのです。もう一度、日輪のように強烈で、派手やかな自己主張も大いに結構ですが、その逆の月のように穏やかで、静かで、地味な生き方も、極めて大事なのだと言うことを、精々アピールしたいと思うのです。もちろんそのどちらにも関心があってもいいのですが、世の中にはそう変った者ばかりいる必要がなくて、むしろどちらかというと、いろいろな面でバランス感覚を持った人間こそが、世の中には必要なのではないかと思います。もっと強調されてもいいのではないかと思います。そうすれば現代のような、矢鱈に目立ちたいばかりに、凶暴な事件を引き起こすような事件に、ちょっとは歯止めがかけられるのではないでしょうか・・・。

夜を失ってしまった都会に住みながら、ふと月の存在に有り難味を感じながら生きていた時代の人間の方が、どれだけ豊かだったかと思ったりするのです。

わたしには月に纏わる、忘れられない思い出があるのですが、それはまた機会があったらお話しようと思っています☆


(満月の写真は、友人、大岩玲子氏が撮影してくれたものです)

満月の写真