思う世界 Faile 11 「仏像が存在する意味」

わたしたちは神社、仏閣を訪ねて、参拝、参詣することが多いですが、姿を見せない神様は別として、寺院へ行けば必ずその寺を代表する仏像が本堂の祭壇に置かれているものです。

姿が見えない神さまには、それだけにその神秘性に対して畏怖するものがあって、思わず手を合わせて祈りたくなります。それに対して仏さまはどうでしょう。実際にさまざまな仏像となって、わたしたちの目の前に存在しています。

視覚的に捉えられない神、さまざまな形で視覚的に捉えられる仏ということを考えると、どうしても親しみということで、寺院のほうに軍配が上がってしまいます。第一、やがては必ず死を迎えることになるのですから、寺とは切っても切れない縁があるわけで、市民の興味が日常的につながっていくのは、仕方がないと思います。第一、家庭にも仏壇があって、仏様とのご縁はますます濃くなっていきます。

どうしても神様は、初詣や、結婚、建築をはじめ、さまざまな幸運を祈願する時など、改まった時にお付き合いするだけで、日常的にお付き合いしている人は少ないのではないでしょうか 。

そこでなのですが、どうして仏像は盛んに作られ、時には芸術的にも優れた作品も登場してきたのでしょうか。もちろん市民との近いところで接触をしてきたという歴史があったからという理屈が成り立つのですが、やはり、祈りというものと、切っても切れない関係があるのだと思うのです。

神の場合の祈りのし方は別の機会に書くとして、今回は仏さまに対して祈る場合ですが、これは実に単純な理由があります。天上界に関しては、誰も行って帰ってきた人がいないので、すべての人が来世についてはまったく未知の世界です。それだけに、やがてその未知の霊界へ行かなくてはならない人間たちは、その時のために、天界に存在している仏さまたちに祈るのです。

しかしそれでも、神のように姿の見えない存在に対して祈る時は、その姿を想像して、かなり集中力を発揮しなくてはなりません。もちろん仏様に祈る時も、散漫な気持ちでいいというわけではありませんが、目の前にその姿があるということは、大分祈る側から言うと、気持ちを集中しやすくなるように思うのです。 特に古代という、まだまだその時代に生きていた人達の知識は、素朴でしたし、何もない分想像力が豊かでしたから、仏像を目の前にしていると、実際に仏様と対面しているような充足感があったのではないかと思うのです。

言葉は交わさないものの、いつか心は通い合う交流が生まれていったことでしょう。そんな間柄ですから、想像力の膨らむままに仏像を見つめていると、それには不可思議な威力、神秘的な呪力を感じるようになっていきます。いつの間にか仏像と対面する人々には、憧憬と共に、畏怖する気持ちが生まれていったに違いありません。人間を超えた存在として、大事にされていきました。

悩み多い人の世です。

人々はいつかそれらの仏像に対して、自分の望みを訴え、聞き入れてもらおうとして、必死に祈りを重ねて行くようになります。

こんな時、姿の見えない神様には、想像力豊かな古代の人々は、それなりに姿が見えない存在として畏怖がありましたが、神と同じような威力を持っていながら、身近な存在であった仏像に対して、思い入れが強くなっていっても、おかしくはないでしょう。古代の人はもちろんですが、21世紀の現代人にしても、目の前に何かが存在しているということは、訴求力に満ちています 。つい最近京都の広隆寺へ行った時も、弥勒菩薩の前に座ったまま向かい合っている人が沢山いました。それだけで気持ちが満たされていくに違いありません。

仏像が存在する意味は、向かい合うわたしたちが、気持ちを統一しやすいということなのです。自分の気持ちを高めて、神仏に訴えるためにも、その対象物が目の前にあったほうがいいと思いませんか。

さまざまな仏像が存在するのは、人間の限りない煩悩を払い、望みを叶えるためで、神様はそういった人間の弱いところを厳しく律する存在でしたから、姿を見せずに、どこから我々の生活ぶりを見ているかもしれないという怖さがあるのですが、それに対して、どのお寺へ行っても、有名寺院へ行っても、沢山の仏像が存在するのは、慈悲深くて親しみ易いということが原点にあるので、それだけに向かい合う者の気持ちを吸収できるし、向き合う庶民のほうも、集中し易いからだと思うのです。

さて、あなたはどう思いますか。☆