思う世界 Faile 13 「心中考」

年末が近づくと、いやなニュースが次から次へと飛び出してきます。

昔から、生活に行き詰って・・・といったことが原因で、自殺をしてしまったり、一家心中をしてしまうといったことが起こりがちなのですが、それは昨今でも年末のニュースを賑わせますが、最近は特に年末という特殊な時期とは関係なく、いささか暗くなってしまうようなニュースが、話題になるようなことが多くなっています。

さまざまな時代背景があって、格差が広がってきていることは確かなことなのですが、しかし一見すると、社会的にはまさに文化爛熟という時代ではありませんか。経済的にも、いささかどうかと首をひねりたくなるような、高価なブランドものがファッション界で人気になったりもしています。

まさにおかしな時代です。

かつてこんな時代に似たような様相の時代がありました。その時の首相であった福田赳夫さんは・・・現首相のお父さんですが、あきれたように「昭和元禄時代」と評したことがありました。

果たして元禄時代はそんな時代であったのでしょうか・・・。 そんな気持ちになってしまいます。

調べてみると、確かに江戸時代の元禄時代というのは、庶民文化が花開いた時代で、まさに文化爛熟といった時代でした。いかにもすべてが満たされて、世の中は平穏そのもので暮らしぶりは安定して、蔭のない楽しめる時代かというと、実はこの頃、なぜか心中事件が、多発していたのです。

現代と同じではありませんか。

世の中が賑わい、文化が爛熟しているという世相を背景にして、どうしてそんな悲惨な事件が多発するのでしょうか。そんなことを調べて行くうちに、どこか現代にも共通する問題を発見したのです。

当時の人気作家であった近松門左衛門は、こうした三面記事になりそうな事件を、浄瑠璃芝居にして大ヒットさせていきました。大阪市民の興味ある事件を、芝居に仕立て上げて行ったのですから、どんなロマンチックなお話になったかと、興味津津で芝居小屋へ出かけて行ったに違いありません。

しかしどうして、天下太平の世の中で、文化爛熟の時代だというのに、心中が多くなるのか疑問に思われるでしょう。

実は、大いにあるのです。

世の中が浮き立ったように活気づいている時代ですから、遊びも盛んです。当時のことですから、遊郭には老いも若きも隔てなく、男なら無理をしても遊びに行きたいところです。

遊びの場ですから次元の違うところですが、男と女のことですから、気に入った相手が見つかれば、所謂遊びから本気になり、恋に落ちてしまう者も出てきます。

相手に会いたいばかりに、無理をして手持ちの金も底をついてしまう者もいる。自業自得かも知れない。しかしその結果が、心中ともなると、穏やかではない。相手がいるからです。

大体、こういった遊郭では、男と女の駆け引きを楽しむところなのですが、熱に浮かされた者にとっては、とても平静な判断を求めることはできないものです。

まぁ、多くの場合は、遊女のほうが上手ですが、彼女たちは通ってくる男を満足させるために、腕などに「○○命」などと相手の名の彫り物などをして見せたようです。しかしそんな男は一人や二人ではないはずで、だんだんおかしなところ・・・時には秘部へ彫ったなどというところにも彫っていったと言われています。しかし時が過ぎていくうちに、どうも相手のすることが嘘くさくて、信じきれなくなってしまうわけです。

それは男も女も同じようなものでしょう。

そうなった時、どうすれば本当の愛だと、信じてくれるのでしょうか。

そうです。

かけがえのない命を、相手に与えるということです。

落語だと「品川心中」のように、女に騙されて、死ぬ気になった男が、二人で海へ飛び込んだが、女はさっさと逃げてしまい、男も浅瀬で助かるといった話になりますが、真剣に愛し合う二人の場合になるとそうはいきません。

愛し合うとしても、どこまで相手の言葉を信じていいのか判らずに、結局お互いの命をかけることでしか、信用できなくなってしまったのです。

文化爛熟で市民が生活を謳歌する時代だけに、いい加減な話、調子のいい話も多くて、どれが本当で、どれが嘘なのか判らない状態になって、やがては人間の心の内が、言葉だけでは信用できなくなってしまったわけです。その結果、「心中」という悲劇を生んでいってしまったという訳ですね。

人がまともに信用できなくなる悲劇です。

何だか現代にも通じるような話だとは思いませんか。

市民文化爛熟の時でありながら、その陰に人間不信という負の面が芽生えていることを、考えてみる必要があるのではないかと思いますが・・・☆