思う世界 Faile(22)「古代人の美意識」

秋の連休中のことでした。

山荘を閉じに行った時に買った新聞で、私たちの世代に大変影響力のあった評論家の一人であった、小林秀雄さんが大変勾玉(まがたま)が好きで、いつも身につけていたという意外な記事が載っていました。そしてそこには、かつて古代の美意識について講演をした時に、その理由とも取れることを話したということを紹介されていました。その講演の内容は、12月に復刻されて公になるということですが、彼は古代人が見ようとした自然の姿を形にして表現したものが勾玉で、それは命の表現であったというのでした。理屈ではない、感じるままに自然の姿を形として捉えたものが、命の象徴としての勾玉だったということだったのですが、小林さんは近代的な美意識を追及していらっしゃったのかと思っていたので、いささか衝撃的でもありました。

古代人には、まだ理論としてそういったものを捉えるというようなことはなかったので、やはりあくまでも、感性として自然を感じ取ろうとしていたということなのです。私もその点に関しては同感で、古代人は決して理論的な思考法を確立しているとは思えません。彼らはみな日常生活の中で感じている、自然に美を感じていたし、それを形にしてみたいと思っていたに違いないのです。あのころ自然を見るということは・・・自然の姿を見届けようとすることは、そこに存在するという神の姿を、見るということでもあったはずです。それを形にしたいということは、彼らにとって常に追求して止まなかった願であったに違いありません。

彼らにとって、自然というものの不可思議さは、とても常識では捉えられない不可思議なものであったし、時に優しく、時に厳しく人々の暮らしに影響を及ぼすのは、どう考えても神でなくてはならなかったと思うのです。みなさんもきっと同じように思っていらっしゃるのではないかと思うのですが、人に宿っているという魂というものも、その典型的な存在です。そんなものの姿を見た者は、21世紀の今日でも、まったく明快に解明されてはいない謎でもあります。しかし理屈っぽい現代人は、頭からそんなものの存在は認めないだろうし、ましてそんなものを、形にしたいとは思わないでしょう。それでもわたしは、自然と共にあった古代人の感性ということを考えると、あの勾玉の形は魂というものの形を現しているように思えてならないのです。

人間の内に宿ると言われている魂などというものは、とにかくその姿を見た者はいないはずです。古代の人々にとっては、その不可思議な魂というものを、何とか形にしたいと思って形にしたものが、勾玉だったのではないでしょうか。そしてそれに、美を感じ取っていたのではないでしょうか。

古代においては、同じようなことで自然の姿を・・・つまり神の姿を、形として受け止めたいと思った古代人は、稲を食い荒らすネズミを駆除してくれる蛇に、簾越しに見る風の姿に、川の流れの清流と激流から、それぞれ自然・・・神の姿を見ようとした感性を感じるのです。その中に美を感じ取っていったのでした。何とか見えないものを、感じるままに形にしたいと思いつづけたのでしょう。それは決して理屈ではないのです。

理論的に・・・つまり理屈っぽい受け止め方でものを見るし、形にしようとする現代人にはない、古代人の物事の認識の仕方だし、受け取り方だと思います。そんな受け止め方を、とても大事に思うようになりました。そしてそんな中に、美を見つけ出していた古代人を、改めて好きになりました。

小林秀雄さんの勾玉を愛していたということが、思わず嬉しくなって、わたしもいつか機会があったら、出雲へでも久し振りに旅をして、勾玉探しをしてきたいなと思うようになったのでした。

ひそかにお守りにもしていたいと、思うようになりました。 きっとあなたは、こんな不確かなものを愛したり、そこに美を感じたりするようなことはないでしょうし、きっと首をひねっていらっしゃるかもしれませんね☆