知る世界 「桂川日記」(1)「広隆寺探訪」
今年春から、嵯峨芸術大学に新設された、「メディアデザイン学科」の客員教授として教鞭をとることになったので、そのための準備のために、何度も京都を訪れることになりました。
これまで古代を背景にした小説を書いてきたこともあって、平安時代というと、どうしても山城国の開発をしていた、秦河勝という人のことが気にかかっていました。
大学が渡月橋に近いところにあるので、その前を流れる桂川を表題にした雑記を書こうと決めたわけです。
実はこの桂川は、渡月橋を境として、その上流は保津川と言いますが、秦氏はこのあたりに堰を作って、水路を開いて活性化していったのですが、そのためにこのあたりを、大堰川(おおいがわ)とも呼んでいるのです。
河勝は聖徳太子とも大変深いかかわりを持っていた人ですが、そのために、太子から送られた仏像・・・弥勒菩薩の半跏思惟像を祭るために、もともと秦氏が建てた蜂岡寺を改築して建てられたという広隆寺を訪ねました。太秦の東映撮影所の近くですから、一度訪ねてもいいのではないでしょうか。
展示されている仏像は、ほとんど国宝か重要文化財に指定されているもので、その姿の美しさ、年輪の重み、巧みの思いといったものが、知らず知らず見るものの心に染み込んできますよ。
雰囲気だけでもお楽しみ頂ければと思って写真を数枚添えましたが、女性が写っているのは、同行したわたしの家内ですので、念のために書き添えておきます。
京都はこうしたところをはじめとして、あまりにも史跡が多くて、果たしてどれほどのことがお伝えできるか不安になりますが、とにかくあまり気張らずに、授業に出向いた時に、見たり、聞いたりした京都の報告が出来たらと思っています。
それにしても秦河勝は、どうして山城国のど真ん中ではなく、西の所謂右京に拠点を構えたのはなぜなのでしょう。ふとそんなことを考えました。
ただ水路を開いて、開発するだけが目的だったのでしょうか・・・。
推理をしていくと、だんだん謎が深まっていきます。
京都というところは、そんなところです☆