知る世界 「桂川日記」(2)「弥勒菩薩の半跏思惟像の謎」

わたしはかねてから、弥勒菩薩の半跏思惟像が大好きだったのですが、幸いなことに京都へ行く機会が増えましたので、先ず太秦にある広隆寺を尋ねることにいたしました。

実は、目下古代を題材にしたもので取材中ということもあってのことなのですが、これまでなかなか対面する機会がなかったのですが、ここの宝物館で、ようやく積年の思いを果たすことができたのでした。

ここはあなたもご存知だと思うのですが、飛鳥時代の有力な氏族である秦氏の菩提寺なのですが、ここに聖徳太子から贈られたという弥勒菩薩の半跏思惟像が展示されていたのでした。それで今回は、その時受けた感動と謎の解明について、お話をすることにいたしました。

話題の仏像は展示場の正面中央に鎮座しておられましたが、わたしは思わずそこに暫く留まって、澄み切った静寂の世界の中で、何かを思い巡らしている菩薩と、いつまでも対座していたくなりました。本当にその美しい姿には、圧倒されてしまいましたが、その仏像の前には、わたしのような思いになる人も多いようで、長椅子が置かれていて、若い参観者が菩薩を見つめたまま、何人もの人がそこに座っていました。あなたも機会があったら、是非一度はお出でになられることをお勧めしたいと思います。

わたしは高校時代に出会った、亀井勝一郎の「大和古寺風物誌」や「美貌の皇后」、和辻哲郎の「古寺巡礼」などという著書の影響で、古代との縁が出来たといってもいいのですが、飛鳥の仏像などの写真集などで、若い時からずっと記憶の中に存在していた仏像は、ほとんど聖徳太子が建立したといわれる、七つの寺に存在していたということが判りました。それがほとんど、弥勒菩薩の半跏思惟像というもので、聖徳太子が活動していた飛鳥・・・つまり大和国の寺である、法隆寺、中宮寺、橘寺、法起寺、葛木寺にあります。それ以外の寺といえば、摂津国の四天王寺、そして山背国の広隆寺にあるというわけです。

広隆寺に展示されている仏像は、ほとんど「重要文化財」と「国宝」なのですが、その時に、思わずどうしてなのだろうかと思ったのです。

どうしてこんなに重要な飛鳥時代の仏像が、京都にあるのだろうかという疑問に突き当たってしまったのです。

飛鳥時代といえば、大和国に朝廷があって仏像などについても、ほとんどいいものは飛鳥にあるはずなのです。こうした国宝級のものであったら、飛鳥にあるはずなのです。それなのに、なぜ山背国・・・つまり京都にあるのでしょうか。しかもここは広隆寺・・・秦氏の菩提寺なのです。

そんなに重要な仏像が、秦氏という個人の持ち物になっているのだろうか。しかしその疑問は、間もなく解決しました。

これは秦河勝が聖徳太子と親しかったという証なのだということなのです。そうでなかったら、権力の中心地である飛鳥を離れて、このような山背国などに、「重要文化財」「国宝」などと認められている仏像が集まっているわけがありません。

わたしがどうして弥勒菩薩半跏思惟像の姿に惹かれるのかといえば、その姿の凛としていて、静かで、穏やかなところにあるのです。じっと見つめていると、いつの間にか、すーっと引き込まれていってしまいそうになってしまう魅力を感じるからです。しかしそうかといって、通常の仏像のように、行い済まして、凛として厳しい迫力で、拝観者を圧倒してくるものとは違っています。

この弥勒菩薩が日本へ入って来たのは、ほぼ六世紀の頃のことなのですが、釈迦が入滅後五十六億七千万年後に現世へ現れて庶民を救済するといわれていた未来仏なのですが、それを実力者である蘇我馬子が、彼の邸宅内に仏殿を建てて法会を行ったという記録が、日本書紀にあります。ところが翌年のこと、権力者であった物部守屋が怒って、それを難波へ運んで捨てたということなのです。どうしてそんなことをしたかというと、それには充分な理由があったのです。

この頃の飛鳥朝では、百済から入った仏教を受け入れていたので、それが主流だったのです。恐らく馬子は、その仏がどんな血筋のものかも知らないで、その呪力に期待して受け入れたに違いありません。あの頃、軍事と外交を担っていた物部守屋は、日本の神を信奉していた氏族ですから、このような他所の国からやって来た蛮神を、放っては置けなかったに違いありません。

この弥勒菩薩が、信仰として定着したのは推古天皇の頃になってからで、聖徳太子が秦河勝と親密になった結果と思われます。実はこの弥勒菩薩の信仰は、朝鮮の新羅の仏なのです。推古天皇の率いる朝廷は、あくまでも親しみをもって付き合っている百済の仏を信仰していましたから、内心面白くなかったのかもしれません。もし大事な仏像であれば、ほとんど飛鳥に安置させたでしょう。ところがこの頃は、新羅との関係もよくはありませんでしたから、その国の仏である弥勒菩薩も、歓迎するはずはありません。

それで新羅国から持ち込まれたと思われる弥勒菩薩の半跏思惟像は、聖徳太子から秦河勝に贈られ、飛鳥ではなくて、こうした山背国右京の、太秦にある広隆寺に置かれることになったのです。そうでなければあのような傑作が、秦氏という個人の持ち物として伝えられているはずはありません。調査を進めた結果、ようやく長年の謎が解けたのでした。あの頃の朝廷が、快く思っていない新羅という国の仏教なのですから、なおさらのことでした。飛鳥に置いておくはずはありませんね。

飛鳥時代の複雑な問題が、こうした信仰を巡っても存在していたのですね。やがて聖徳太子が馬子と対立して、朝廷のあるところから十六キロも離れた斑鳩へ、拠点を移していったのはこんなことに遠因があったのかも知れません。

しかも太子が亡くなると、朝廷は新羅へ兵を送ろうとまでするのです。馬子たちは、如何に新羅が嫌いであったかが窺える出来事でしたね。しかしそんなことがあって、古代の傑作である仏像が、こうして京都で拝観できるというのも、皮肉なことではないでしょうか。もしあのまま飛鳥にでもあったら、その後の戦乱の中で、傷つくか、破壊されてしまったかもしれません。とにかくゆったりと時間が流れていたはずの古代ですが、その時点ではさまざまなことが、忙しなく動いていたのですね。

そんなことなどを考えながら、あなたも弥勒菩薩の半跏思惟像と向かい合って、無の世界を楽しんではどうでしょうか☆