知る世界 「桂川日記」(58)「業平余談・京都」

今回は「伊勢物語」でお馴染みの、在原業平に関して、その取材で得たお話を、京都と東京で紹介しようかと思います。

何といっても業平といえば、平安時代初期の歌人で、三十六歌仙の一人に選ばれるほどの人ですが、本当はそういった文人ではなくて、武人としての生活をしていたのですが、それは別として、当然のことですが、彼は京都で暮らしていました。それはそうです。彼の親が京都で済むことになったからでした。実は、本来平城京へ住むことになるはずだったのですが、事情があって京都で住むことになってしまったのです。

業平の父は阿保親王といって、実は平城天皇の親王だったのですが、平城天皇の頃に起こった薬子の変に巻き込まれて、王朝は嵯峨天皇となり、所謂平城時代から平安時代へと変ったのです。業平は父の阿保親王と平安京で暮らすようになるのです。その屋敷跡は、京都三条にありますが、父の阿保親王の墓は、兵庫県芦屋の翠ヶ丘にあります。

この芦屋は海と山の景観の素晴らしいところで、阿保親王はここに別邸を築いていたようでしたから、縁の阿保天神社というものもあります。そんなこともあって、その子の業平もここへ来たこともあったのでしょう。

町に流れる芦屋川に「なりひらばし」というのを発見してびっくりしたんです。

実は私は東京の墨田区出身で、最近開場した「東京スカイツリー」の地元の出身で、その近くの墨田川高校を出たのですが、このスカイツリーのあるところが、昔は「業平橋駅」と言われていて、在原業平と関係深いところと言われてきたのです。近くにはゆかりの「言問い団子」という老舗もあって


名にし負わばいざこととわん都鳥

我が思う人はありやなしやと


「伊勢物語」の業平とは大変縁のある地名だと思いつづけてきたのです。

ところが「東京スカイツリー」がきっかけで、どうやら「業平橋」などの地名は、まったく別人の相撲取りの名であったということがはっきりとしたようで、どうやら在原業平は隅田川へ現れたかも知れないのですが、橋の名や菓子の名とは、直接関係のないことが判ってきました。

まぁ、そんなことは別として、業平は京都と東京を結びつけてくれたという功績を認めなくてはなりませんね☆

芦屋阿保親王墓の写真
京都在原業平邸跡碑の写真
芦屋在原業平橋の写真