楽しむ世界 Faile(25)「ひとくち古代史考」(東西)

久し振りに、親しい人から正体を受けて、初場所の大相撲を観戦しました。

白鵬が四連覇を成し遂げるか、それとも朝青龍が復活を遂げるか、引退に追い込まれるかという話題もあって、両国国技館の熱気は一通りではありませんでした。

たまたま赤房下の砂かぶり近くの、大変いい席にいましたので、観戦中の私と家内の姿を、友人たちに発見されてしまうという、おまけもついてしまいましたが、それでも大いに楽しむことができました。

実は若い頃、「横綱北の湖」のドキュメントレコードを制作することになって、土俵下で取材をしたことがあったのですが、とにかく勝負事だけに、計算通りにはいかないもので、大関貴の花相手に見事勝って優勝というシーンを想定していたのに、なぜかこの時は絶対に横綱有利と思われていたのに、接戦の末に負けてしまったのでした。

ディレクターと二人で、思わず大きなため息をついてしまった思い出も、一瞬のうちに甦らせながらの観戦でした。

熱戦のつづく土俵上を見つめながら、ふと昔のことなどを思い出したりしていたのですが、今回は東と西ということについて書こうと思うのです。

前述した通り、この日は話題の張り出し横綱の朝青龍は西から、四連覇がかかる正横綱の白鵬は東から土俵に上がりました 。

相撲は昔から東と西に分かれて勝負をするようになっていますが、これはなぜなのでしょうか。

東西とか南北などといっても、日常生活をしている中で、こんなことを多少でも気に留める時といえば、ほとんど大相撲がある時ぐらいなものでしょう。

ところが歴史的に、この東西というラインが大事にされてきた時代と、南北というラインが大事にされた時代があったということをご存知だろうか。

大相撲では必ず力士たちが東西に分かれて対戦するようになっていますが、これは古代の人々にとっての、極めて大事な方向を現していたからなのです。簡単に言えば東は日輪の昇るところ、西は日輪が沈むところです。もうちょっと違った言い方をしますと、疲れた生命が西へ沈み、東から蘇生してくるということから、東西は極めて大事なラインであったことは間違いありません。

東は現世であり西は失った生命が、やがて東から甦って来るための再生の場であるという風に考えるようになっていったのでした。

神々の考え方が徹底していた頃は、この東西というラインが大事にされていましたから、によって行われたのが始まると言われる相撲ですが、当然のことですが、東西に分かれて戦われたに違いありません。

このころまでは、天皇の御陵が飛鳥の西に作られていましたが、それがやがて南北のラインが尊重されるようになるのは、道教思想が入って来てからで、それ以後は宮廷を建設するにも、「天子南面す」の指示通り、天皇は南に面して臣下と対面するようになっておりました。ところが藤原京は、わずか十数年で平城京に遷都してしまうことになりました。その理由というのが、持統天皇の高御座が、臣下の座るところよりも低くなってしまうからなのです。

この南北尊重という思想のためか、天皇の御陵も南北のラインに作られて行くようになっていきましたので、やがてその土地を探すことが困難になってしまったのです。その結果考えられたのが火葬だったのです。それまでの土葬からの大転換が行われるようになったわけです。仏教の考え方が入ってくると、東は現世であり西は来世という受け止め方をするようになりました

東幕内力士土俵入りの写真