ねこの目グループ戦争体験


目次
戦時中の思い出 兵庫 HT さん
長野の案山子さんの戦争体験
栃木 HY さんの戦争の思い出
E 豆さんの戦争の想い出
梅干(掲示板より)
B29のお腹?
防空壕
集団疎開
バケツリレー
縁故疎開
間借り人
徴兵制
徴兵制2
徴兵制3


戦争体験2001年12月~


戦時中の思い出 兵庫 HT (原稿は点字:墨訳、葛餅)

 私が兵庫盲中等部を卒業したのは、昭和21年。既に戦後であるが、20年3月の卒業式は空襲のため中止。卒業証書を、各自の家庭へ郵送しただけ。

その頃から、毎夜必ず1度は空襲警報。しかし、空襲は必ず夜の12時まで。夜明けには絶対なかった。したがって、空襲になったら、運動場に整列。裏山に避難しなければならないので、まず、ゲートルを巻き、靴を履いたまま畳の床に頭を持たせかけ、足は土間に下ろした状態で仮眠。こうすれば、空襲になっても間髪を入れず行動できるからである。20年の4,5月は、何とか授業も出来たが、6月1日をもって、学校閉鎖、家庭学習となった。

 私の父は、ヒロタ神社の神主だったので、その、官舎に住んでいた。家庭学習の間、神戸盲唖院へ本を借りに行ったら、院長、モリタイゾウさん(大阪市盲第1回の卒業生で、新校盲学校長。のち、イマゼキさんの兵庫盲に合併し、しばらく教頭でいた後、退職)が、群馬県に疎開するので、ご子息、マロマサオさん(晴眼者)点訳の、ミキキヨシ著「哲学概論」および、「人生論ノート」を売却すると言うので、各2巻(1巻3円)を、母に買ってもらい、空襲の時も、それを防空壕にまで持ち込んで読んだ想い出がある。

 ヒロタ神社は、当時、山の中だったが、神社は米軍の攻撃目標だったので、7月のある日の空襲は激しく、いつも入る防空壕から、危険を感じて、母と神社の社務所に避難する途中、左右の笹原は火の海。中には爆弾で即死した人もいた。社務所に避難後帰ってみると、私の家と棟続きの隣家2軒は無事だったものの、反対側の隣家は全焼。幸い、私の家との間は、何メートルかの空き地があり、風もなかったので助かったという、まさにひやひやもの。

 8月15日正午の、終戦の詔勅。これを聞いて涙するリンポの人もいたが、私の実感は、これでやれやれ。今晩から灯火管制も空襲警報もない、平和な世の中になると、思わず背伸びをしたものであった。

 学校は9月から授業が再開されたが、なんとなく気が抜けた感じで、私がやっと気を取り直して寄宿舎に帰ったのは、10月だった。

 石坂洋二郎の「青い山脈」は、戦後、新聞連載小説から映画にもなり、大変有名だったが、文学的価値は、その前に出た「若い人」のほうが高かった。それを、放課後など、弱視の上級生に読んでもらうのが至福のひと時でもあった。

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長野の案山子さんの戦争体験(テープ起し:葛餅)

 私が戦争と言うことを意識したのは、小学校2年のときに、いわゆる支那事変とか日支事変とか言っていた、日中戦争のことらしいですね。今はね。蘆溝橋(ろこうきょう)というのが起きて、これ、そんなに長くかかるとは思っていなかったですけれども、段々エスカレートしちゃって、とにかく戦況が拡大していく一方。そしてついには、現在のベトナムですね、あの頃は「フランス領インドシナ」と言っていた。仏印といっていた、そこまでのびたんですよね。

 その内に段々、日米関係が険悪になってきて、「こりゃまあ戦争になるんだろうな」と言うような予感がしていて、とうとう昭和16年の12月8日に真珠湾攻撃ということになったわけですけどね。

 その時には、それこそ「日本勝った勝った」と言うんでもって、日本中が沸きかえっていて、すっかりいい気になっていたんですよ。「こりゃまあ、そんなに長くかからないだろう」と、思っていたんですけれども。

 その内、シンガポールは陥落するし、インドネシアのほうもどんどん進出していって、ジャワ島が、こちらの占領下に入るというようなことになって、もう、そんなに長くはかからないだろうと思っていたんですが、その内に負け戦になっちゃったんですね。

 僕は、東京に出たのが昭和17年の4月でした。4月8日に入学式があって、そしてその10日後、4月18日に、アメリカのホーネットという航空母艦から発進した、ノースアメリカンB25という、軽爆撃機ですね。これが東京・横浜・その他どのぐらい空襲されたのかな? とにかく、東京・横浜を中心にして、空襲を受けたわけですよ。まあ、日本としても「まさか」と、思っていたんでしょうね、あれは。

 いやー、僕は実際に敵機の音を聞きましてね、日頃飛んでいる日本の飛行機とはちょっと音が違ったんですよね。「おや?いつもの飛行機とは音の違う飛行機だな」と、思っていて、それがあの、いわゆる現在の付属盲学校の真上を通って行ったわけですね。

 そして、それに対して、下から高射砲が、ババババーンと、やった。それから、空襲警報のサイレンが鳴ったって言うんでね。何だかもうすっかり向こうにいいようにされちゃったと言う感じだったですね、あれは。いやあ、それで空襲警報になってね、いよいよ防空壕に非難しなきゃならない時には、なんかもう、体中ガタガタ震えちゃってました。

 その前に、しょっちゅう、防空訓練、「防空演習」というのをやってましたね。あの時の空襲なんていうのは、なんか、普段の防空演習に毛がはえたような。いや、実際にやられたところはこれ、大変だったんでしょうけれども、僕達なんかで考えればね、ほんとに大したことないという感じだったけれども、かなりやられたらしいですね、あれは。

 そしてその、なんていうのかな、仕返しというような、今で言えばリベンジっていうんですか? そのつもりでミッドウエイを占領しようとしたらしいんですけれども、その計画が、すっかり向こうに筒抜けになってしまって、待ち伏せ攻撃受けて、日本の海軍が随分その、壊滅的な打撃を受けたんですよね。

 そしてその、なんていうのかな、仕返しというような、今で言えばリベンジっていうんですか? そのつもりでミッドウエイを占領しようとしたらしいんですけれども、その計画が、すっかり向こうに筒抜けになってしまって、待ち伏せ攻撃受けて、日本の海軍が随分その、壊滅的な打撃を受けたんですよね。それを、大本営発表じゃあ、「ミッドウエイで勝った、勝った」と、いってたんですけども。それからですよね、ソロモン群島のガダルカナルと言うような所で激戦があって、段々、そこから負け初めてから、どんどん日本は負け戦一方だったんだけれども、それをその、「勝った、勝った」と、言い張っていたんですよね。日本の大本営は。

 で、あの時にあの、万葉の中にある、「海ゆかば みずく屍 山ゆかば 草むす屍」という、あの歌を、信時潔(ノブトキキヨシ)が作曲して、あの歌を作った。で、日本が負け戦のような時には、ニュースの前にまずこれがかかって、何というか、まあ、こちらの方が有利に展開したというときには「軍艦マーチ」をかけた。どうも、こっちがすっかりやられちゃったという、例えばサイパン島が墜ちたなんていうとき、サイパン島が玉砕したときには「海ゆかば」をかけた。そしてみんな、兵隊達が、それから、沖縄戦でもみんな自決する人達は、みんな「海ゆかば」を歌って自決していったということなんですよね。それで、あのー、信時潔が、自分の作った歌が、そんな風に利用されちゃったということで、非常にもう、なんていうか、現在でいうと、「とらうま」みたいになっちゃったんじゃないでしょうかね。で、もう、終戦になってからは、いっさい作曲はやらない。作曲活動はしなかったという話しですけど。それでも、何か作ったみたいで、作ったらしいけれども、本当に作曲活動はほとんどやらなかったようですね。

 とにかく、どんどん負けていく。食料はどんどん不足してくる。腹を減らしていましたよ。東京で、寄宿舎で。その付属盲学校が、富山県の宇奈月温泉に疎開したんですけれども、僕はまあ、長野に、地元に盲学校があるから。結局、僕は地元の盲学校の小学部を卒業してから東京に行ったんですからね。まあ、こっちに盲学校があることだから、わざわざそんな、富山県の遠くの疎開地まで行かなくてもと、いうことで、戻ってきました。そして、まあ、こちらで一応卒業したと、言うことになるんですけど。その頃はだんだんと詰まってきましてね。

 そして、昭和20年になってからは、日本海に機雷を落としにいったんですよね。飛行機、B29がそこら中を空襲やってましたけれども、B29がね、日本海へ機雷を落としに行く。その為に、長野の上空を通っていく。毎晩、毎晩、ぶきみな爆音を立ててね。その度に、警戒警報・空襲警報ってなるんです。陸上にはほとんど、弾は、爆弾は落とさなかった。みんなその、駿河湾から入ってきた。なんか、富士山を目標に来たらしいですね。そして、駿河湾から日本に入ってきて、天竜川沿いに、天竜川が光っているんですってね、上から見ると。天竜川沿いにずっと上がって。今度は鉄道の線路沿いにずっと上がって行ったらしいですね。信越線沿いにあがって、直江津のあたりから新潟の方面にかけて、日本海に機雷をバシャンバシャンと落として、そしてまた、悠々と帰っていく。それをこちらでは、どうすることもできないんだよね。撃ち落とすことができない。やられるがままになっていたんですよね。

 太平洋のほうは、大変だったらしいですよね。直接、艦砲射撃なんていうのにあったところもあったらしい。艦砲射撃と言うのは、またちょっと違うでしょうね。空襲で上からやられるのと、まともに、大砲の弾が飛んでくるんだから。大変だったとおもいますけど。で、その内に沖縄に敵が上陸する。で、今度はなんとか勝つだろうと思っているのに、沖縄ももう、負ける一方で、とうとう最後に沖縄が陥落する。

 その頃からですよね。とにかく、敵の飛行機が、B29がもう日本中の中小都市を爆撃したのは。長野もいつやられるかというので、びくびくしていたんですけど。で、僕もね、母親と一緒に、一応田舎のほうに疎開しました。10日ばかり、疎開したんですけどね。で、その間にね、8月13日に、ものすごい空襲がありました。長野は。

 と、いうのは、これ、全国的にも有名になっていることだから、ご存知でしょうけれども、大本営、松代に地下壕を造って、10月頃完成して、いわゆる天皇ご一家というか、こちらへみえるということになっていたらしいですね。そして、大本営を全部、松代の地下壕に持ってきてということだったらしい。8、9部通り出来上がったところで、終戦になったんですけど。いまでもその地下壕がそのままあって、ときどきみんな見学にくるようですけれども。僕まだ、地元にいながら、行ったことないんですよ。

 まあ、それに、韓国人・朝鮮人が動員されて使われたということらしいですけどね。僕らなんかも、それはほとんどしらされなかったですよね。なんとなく、漏れてはいましたけど。「なんか、大本営を今、造っているらしい」と、いうようなことは聞いていましたけれど。一応なんか話しに聞くと、天皇一行は汽車で来る、汽車でこちらへというつもりだったらしいですけれども。ただ、長野に飛行場がありましたんでね、飛行機でくるという風に、アメリカのほうは思ったんですね。だから、「飛行場を壊しちゃえ」と、いうことで、それで空襲をやったんだというようなことを、後で聞きましたけど。とにかく、まあ、1日中、小型爆弾、もうその頃になったらね、B29じゃないんです。航空母艦から小さい戦闘機がいくらでも日本の上空に飛んでこれたんですから。日本の沖合いまで、制海権、制空権を全部とられちゃったんだから。航空母艦から小さい戦闘機が飛んで来てね、そうして機関銃で、バリバリバリバリと、その、なんていうの、非戦闘員を。

 初めはアメリカでは「軍事基地を中心にたたけ」と、いうことになっていたらしいですけれども、その内に、「日本人と見たら、一人でも多く殺せ」と、言う風に変わったんだそうですね。それで、まあとにかく、地上にいる人をめがけてね、上から機関銃で撃つんですよ。機銃掃射という奴ですよ。これで、まあ、48人だか犠牲になったといいますけどね。8月13日、日の出から日の入りまでと、いう感じでしたね。

 まあ、僕も疎開地にいたんだけども、その近所までとにかく、敵機が飛んで来てね。僕はカワダという所にいたんだけどね、長野電鉄の駅があるんですけど、その電車を降りてきた客をめがけて撃ったらしいんですね。だもんだから、本当に僕は目と鼻の先で、機関銃の音を聞きました。もう、それから小型爆弾を落とすわ。とにかく、鉄道の基地と、飛行場をちゅうしんに、とにかく1日中やりましてね。

 最初、昭和17年の4月の空襲なんていうのは、その時のことを考えるとね、お話しにならないです。とにかく目の前で小型爆弾が、ズシンズシンと墜ちてくる。そして機関銃がバリバリバリと撃ってくる。それでも、防空壕というものがなかったものですから、もう、やられりゃやられたってしょうがないなと、いう感じだったんですけどね。とにかく、1日中でしたね。

 そして、その2日後だったですよ。終戦になったのは。で、僕は母と疎開していたんだけど、母親が8月15日にね、最後の荷物を取りに、家から荷物を持ってくるといって、まあ、一応大事なもの、やけても仕様がないものはのこして、大事なものというか、使えるものは、最後の荷物を取りにいくということで、僕は一人で留守番していたんだけど、その、農家の1室を借りて。その家はまた、ラジオが壊れていて、ラジオがなかったものですから、まあ、夏で戸を開けっぱなしてたから、隣の家から聞こえて来るラジオを、首を伸ばしてきいてたんですけどね。そしたら、「今日、12時に、重大発表がある。天皇陛下自ら放送される」。

 その前に、8月9日にソ連が不可侵条約ということで、あれは、昭和21年の5月頃までまだ、その不可侵条約の有効期限があったわけですよね。それをその、昭和20年の8月9日に。あれはね、ルーズベルトと内緒でスターリンと交渉やったらしいんだけど。それで、「ソ連が参戦してくれれば、千島と樺太は、自分のものにしていい」というようなことを、ルーズベルトが言ったというらしいんだけども。で、スターリンが、「もうドイツが負けちゃって、日本と不可侵条約を結んでいる必要はなくなった。世界に一日も早く平和をもたらすために、ソ連は日本をたたくんだ」と、いうような戦線布告文を出して、攻めてきたんですよね。もう、日本じゃあの時はソ連とは不可侵条約ということになっていたから、満州のほうにいた精鋭部隊は、みんな南方にやっちゃってたから、本当に満州に残っていた関東軍なんていうのは、ソ連にしちゃおもちゃみたいなものだったんじゃないですかね。まさかと思ったソ連に戦争されちゃ、本当に日本は世界中を敵に回すようなことになっちゃったんだから。「これは大丈夫かな?」と、いう感じはしましたけどね。「絶対に勝つんだ、勝つんだ」って、それでも日本は勝つんだと、盛んに軍部のほうではいってましたよね。

 それが、8月15日に、「忍びがたきを忍び、絶えがたきに絶え・・・」と、いうあの、天皇の放送があって、終戦になりました。

 えーと、それまでに僕、まだお話ししたいことがいっぱいあるんだけれども、これ、きりがないから、この辺にしますけどね。僕達にもその、陸軍病院のマッサージにいくというような話しがあったんですけれども。まだ、全国の盲学校でそういう卒業学年の、ちょうど、卒業学年でしたからね、僕は。卒業学年の生徒が、各地で陸軍病院とか、師団なんかにマッサージに行っていたんですよ。長野も9月にはなにかそんなような話しがあったんだけれども、結局それにならない内に終戦になりましたけれども。

 それから、東京から集団疎開の子供達がこちらにきていて、随分なんか淋しい思いをしたらしい話しを、あの頃、疎開の子供達とちょっと親しくなったので、いろいろ聞いたはなしもあるんだけど、ちょっときりがないからこれははぶきますけど。まあ、とにかくそうだな。一番恐ろしかったのは、その8月13日の長野空襲。今でも、8月13日になると、「長野空襲を語る会」と、いう会をやっています。僕は出たことはないけれども。そこへ、資料、自分の経験談を提供したことはありましたけれども。

 まあ、それから、終戦直後、とにかく食料はなくなる一方で非常に苦労した。いわゆる「ふすま」と、いうものを食べましたね。小麦粉、今は小麦は真っ白な粉になっちまうわけだけど、いわゆる小麦をただ曵きっぱなしの粉。いわゆる小麦のいいところを振るったあとの麦のかすみたいなところですね。黒パンなんていうのは、それをみんな使っているんじゃないのかな。まあ、そのふすまなんていうものを食べましたしね。

 だめだな、こりゃ、戦争の恐ろしさなんていうことにはならなかったね。なんだかただの戦争の、なんていうか、思い出話しになっちゃって、戦争の恐ろしさにはならなかったみたいでもうしわけない。

 まあ、一応僕の戦争の思い出話ということで、しゃべってみました。

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栃木 HY さんの戦争の思い出

 私は、秋田の田舎で育ったせいか、自分自身での想い出のようなものはありません。

 ただ、私の父親の兄に当たる人が戦死し、子供が二人いて、未亡人になった叔母が、10歳も年下の弟と、無理やりに逆縁させられています。

 その時は、親戚中が集まって、嫌がるおじ、つまり、私の父親の弟を、何日もかかって説得したようです。その度ごとに、私たち子供は、外に遊びに出されました。

 いずれにしても、戦争はみんなを傷つけます。今の戦争も、早く終わり、今年は平和な社会になってくれることを祈ります。

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E 豆さんの戦争の想い出

 私自身は、16年、東京小石川生まれですが、父が軍医として、満州にいったので、父の田舎、千葉に行っていました。

 食料事情も、ひもじい思いはしませんでした。防空壕に入って、豆を食べたのを覚えています。

 夫は15年、東京生まれ。東京大空襲にあい、母親に手を引かれ、領国の川のほとりを、死体をまたぎながら逃げたそうです。

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投稿者:梅干(掲示板より)
 

 私は、昭和22年生まれなので、戦争体験はありません。

 でも、「ネットワーク鴎」というテープ雑誌で、nhkのニュースでやっていたアメリカの飛行機の爆音を録音した、レコードの話しを載せたら、何人かのリスナーから、「このレコードで耳の訓練をさせられた」と言うレポートが帰って来ました。

 戦争にまつわる話しで悲しかったのは、叔母の夫が昭和12年生まれの男の子と母親を残して、7年間もビルマ戦に行ってしまったため、帰って来ても従兄弟の心は、もう父親として受容れられなくなり、更にそこへ次男が生まれてしまったため、性格に異常を来しいろいろな事件の原因となってしまったことです。勿論その兄弟たちもしっくりとは行かなくて、何時も家族4人は寛げないような変な緊張状態の中で暮らしていました。

 それから、別の叔父は予科連に志願し訓練を受けている最中に戦争が終わり、そのエネルギーの捨て場を探すように、集まりに出て行っては酒を飲み暴力沙汰を引き起こし嫌われていました。

 私の父は、体が小さくておまけにリュウマチや喘息などを持っていて、戦争に行けなかったため何時も社会に対し、引け目を感じていたようで嫌がる役目や、仕事などを進んで引き受けてきたので、母に叱られてばかりいたのを覚えています。

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B29のお腹? 投稿者:葛餅 投稿日:11月14日(水)21時08分40秒

 さて、昭和14年に葛餅が生まれた日、「灯火管制で暗い部屋だったので、生まれたのは男の子だと思った」と、いう逸話が残っています。「管制解除で明りを照らして見たら、女の子だった」。まあ、葛餅が男の子か女の子か分からないような子だったので、こんな話を作ったのだと思っていますが、母にはこの話は何度も聞かされました。昭和14年に、本当に灯火管制があったのかな?

 でも、この話が何かを象徴するように、葛餅はこの世に暗い時代の幕開けを知らせに来たのかも知れない。なんて、大げさだけど、こう思う理由は、家にある古いアルバムを見ると、たった3年早く生まれた姉は、親族揃ってバスを仕立てての旅行に行った写真などに、加わっているのに、葛餅が加わってからは、そんな派手な楽しみは消えてしまっているような気がします。姉には、今でもある、私立の幼稚園の制服を着た写真まである。葛餅は幼稚園に行っていない。随分後まで、葛餅はこの3年の違いに不服を持っていました。「3年長生きをすればいいじゃないの」と、慰められると、「だって、おばあさんになって3年長生きしたってつまらない」と、口をとんがらす。でも、つい最近、久々に姉に会って、「あっ!葛餅のほうが若い!」なんて、やっと納得しましたけどね。

 姉が小学生になって、遠足について行ったことがありました。母も一緒でした。多分、いつもくっついていたのでしょうが、その時のことだけ覚えているのは、列になって道を歩いていた時に、大きな飛行機がすごく低空飛行をしてきて、皆、道の脇に「伏せ」の体制で寝かされたからです。シャチが泳ぐ水槽を地下の食堂のガラス越しに、下から覗けるようになっているのは、勝浦の水族館だったかな? ちょうどそのシャチのお腹のような、B29(と思っているだけ機種は分からない)のお腹が家の屋根すれすれと言った感じの高さで、真上を通り過ぎました。その、お腹の大きさは「怖かった」と感じて覚えていますが、撃たれるとか、爆弾が落ちる、といった恐怖は感じた覚えがありません。と、言う事は、まだ、空襲の経験はなかった頃の、偵察飛行とでも言ったものだったのでしょう。

 葛餅は、「禁じられた遊び」がとても怖くて見られない。あの、初めの場面で、両親が機銃掃射でやられるところを見ると、その時は感じなかった怖さと一緒に、あの大きな飛行機のお腹を思い出し、背中がぞくぞくします。

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防空壕 投稿者:葛餅 投稿日:11月14日(水)21時09分13秒

 家の庭に防空壕を掘った時の事も覚えています。全部で3つ掘りました。父の実家からきたのでしょうか、男の人たちが、大きな穴を掘る。柱を建てる。上に木を渡して板を張る。土をかける。畳を敷く。防空壕なんてこんなものです。カモフラージュであって、爆弾から身を守れるような物ではなかったと思います。畳が3枚ぐらいはひけたのかな?後の二つは、主に荷物を入れました。小さかった。一つは竪穴で、一つは横穴で扉がついていたような気がします。

 当然、初めは面白かった。畳を敷いた壕には、電灯もつきました。勿論、裸電球。中に入って遊びました。

 夜中に変なサイレンがなるようになってきました。それこそ灯火管制。まず、要らない明りを消す。どうしても必要なところも、ただでさえ暗い電灯に、黒い布をかけて、真下だけに明りが漏れています。「おばあちゃまと防空壕に入りなさい」と言われると、姉と3人で入りました。大人は後から入って来ました。サイレンの音に違いがあったのか、間隔が短くなったのか、「警戒警報発令!」と、警防団の人が口にメガホンを当てて、告げていたように思います。本当に近づくと「敵機来襲!」という声も聞いたかな? 「警戒警報解除」もあったかな? これを聞いて、家に入って寝直す。在郷軍人の父は、防空壕には入っていなかったように思います。そのころ、祖母は中気(今は中風かな?)がひどくなっていました。毎晩のようにサイレンが鳴るようになると、祖母は「私はこのまま置いていって欲しい」と、言い出しました。みんなが防空壕に行く前に、祖母の顔の上を隠すように、書机を置きました。

 祖母だけ置いては行けないと、考えた末に、祖母の寝床をお蔵の中に移しました。土蔵の中は怖いところでしたが、みんなで一緒なので、戦争中は怖くなかった。お蔵の中で読んでもらった絵本を、今でも覚えています。なんと、義経の八艘飛びとか、那須の与一とか、山中鹿之助、熊谷次郎、絵まで思い出します。前の文で書いた、家の近くに爆弾が落ちたときは、慣れっこになってサイレンを聞きながら、ぐずぐずしていたときでした。すごい音にみんなで一斉に飛び上がって、お蔵に転がり込みました。いま、考えるとおかしい事ですが、なぜかお蔵の土の扉の前に、長椅子が入り口を塞ぐように置いてありました。あれって、もしかして、敵がきたとき、少しでも入りにくくするためだったのかな?その、長椅子を一気に飛び越した気がします。義経みたいに。その、長椅子に張ってあった布地まで覚えています。だって、後に、この椅子の皮は剥がされて、葛餅のズボンになったから。

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集団疎開 投稿者:葛餅 投稿日:11月14日(水)21時16分28秒

 昭和20年4月。姉は3年生。3年生は学童疎開の最低学年です。両親は決断を迫られたのでしょう。何も分かっていなかった葛餅にとっても、生活が変わってきます。姉がいなくなると同時に、女中さんもいなくなりました。ごめんなさい、言わなかったけど、葛餅が生まれたころ、家にはばあやと女中さんがいました。ばあやがいついなくなったか覚えていません。多分、戦争が激しくなって、田舎に帰したのでしょう。女中さんは姉について、寮母として疎開先について行きました。姉は、家の地域の尋常小学校でした。集団疎開先は長野県の諏訪湖の近くだったようです。1度、面会に母と一緒に行った覚えもあります。薄暗いお寺か何かだったのかな?姉はやせていました。母がドーナッツを作って持っていきましたが、集団生活しているみんなに分けるので、姉にだけ食べさせる事は出来ませんでした。これに引き換え、もう一つの学童疎開先にも面会に行った覚えがあります。修善寺の旅館を解放しての疎開生活。これは、慶応幼稚舎6年生の従兄弟の面会に行った先です。葛餅には御殿のように見えました。綺麗な庭には池がありました。

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バケツリレー 投稿者:葛餅 投稿日:11月14日(水)21時20分48秒

 女中さんもいなくなり、既に棒切れのように動く事の出来なくなった祖母を抱えて、母も大変です。母たちは、時々集められました。「愛国婦人会?」この呼び方は母と一緒に考えましたがよく思い出せないようです。銃後の守りを担う婦人団です。主に、バケツリレーの練習だったとのこと。運動会ではありません。空襲で火事になったら、力を合わせて火を消し止める?

 敵が来たら、竹槍で突き倒す・・・訓練か何か分からないけど、箒かはたきのような物を持って、何かをした・・・と、情けない母の記憶です。買出しに行った記憶もあります。母は大きなリュック、葛餅は小さなリュック。サツマイモをたくさん詰めて帰りました。葛餅も2本ぐらいリュックに入れてもらいました。余り頑張りすぎて、家が見えたとたんに、腰が抜けて一歩も歩けなくなり、「たすけてー」と叫ぶ、サザエさんみたいな母でした。「何か着物でも持っていって、野菜をもらったりしたの?」と、聞いて見ました。「そんなことはしなかった。でも、よく食料を分けてくれる方に、お礼に紙を持っていったことはある」とのこと。葛餅の親族は、紙を扱っていましたから。その頃は「わら半紙」が、貴重なものだったのでしょう。母は、紙なんか持って行ったので、学校の先生と思われていたそうです。その頃木の箱のような電車にのって、はるばるお芋の買出しに行った先は、いま、東京のベッドタウンとして住宅の並ぶ、葛餅の現在住んでいるあたりです。葛餅が美味しかったのは、配給になる「ブドウ糖」。沖縄の黒砂糖のように、塊です。大小があるので、阿弥陀くじで分けるのは楽しかった。

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縁故疎開 投稿者:葛餅 投稿日:11月14日(水)21時30分15秒

 学童疎開先の姉が、栄養失調で目が開かなくなりました。たった一ヶ月の間に。両親は手づるを探して、縁故疎開先を見つけました。長野の伊那というところでした。葛餅も合流。母の母が、2人と一緒に疎開先で暮らしました。葛餅の記憶の中で、真っ赤に燃える炎とサイレンの音と、静かな田舎の暮らしが妙なコントラストを作っています。

 母に伴われて、トンネルの多い汽車に乗り、たくさん歩いて着いた疎開先で、先ず困ったのは、家に入れないこと。家の前に川があり、丸太が3本渡してあるだけ。丸太とは言わないかな。枝を落としただけの、自然の木。とにかく這って渡って家に入る。二階を借りました。

 姉は、2キロも歩いて通う学校で、「東京の子」と、いじめられたりしたようですが、葛餅はここの生活で大してつらかった事もありません。むしろ、一生の中で、ほんの5ヶ月ぐらいかな、自然の中で暮らした貴重な経験でした。怖かったのはトイレ。外にあって、夜中は真っ暗。勿論、穴が空いているだけに近い。川で洗濯をし、同じところでお茶碗を洗い、お米も研ぐ。子供は水で遊びます。田んぼのあぜ道で蛍狩りもしました。家の庭には杏の木がありました。山の上にりんご畑がありました。りんごの木は子供が登るのには手ごろな木でした。ぐすべりをたくさん取って袋に入れたり、ジャガイモの葉っぱについたアブラムシを指で潰す手伝いもしました。不思議に思ったのは、友達がみんなパンツをはいていないことでした。時々、母が来てくれました。お土産のバターを、ご飯に乗せて、お醤油をかけて食べました。あんなに美味しいと思ったものはありません。祖母が母に「食べ物が粗末で、子供たちがかわいそうで」と、話していましたが、いまだに、どう思い出しても、葛餅はひもじさをつらく思った記憶がありません。母は、世話になっているお礼にと、いろいろなものを背負って来たようです。そして、田植えで忙しい家の人に、「少しはお手伝いができるかしら?」。田んぼに行ってみたけれど、泥水に足を突っ込んだだけで何も出来ません。「では、こいを買ってきてください。おちょこに1杯」と、言われたそうです。「はい」と答えたものの、さて、何のことやら? これは、鯉の稚魚を、おちょこに1杯買って、田んぼに放す。稚魚は、田んぼの虫を食べてくれて、大きくなる。こんなことだったようです。葛餅は、この伊那村で終戦を迎えます。葛餅には戦争が終わったという認識は何もありませんでした。戦争が終わっても、すぐには帰りませんでした。多分、敗戦後、米兵にどんなことをされるのか分からず、警戒しての事だと思います。葛餅が家に帰ったのは10月に近かったようです。返って見ると、家の祖母は亡くなっていました。終戦を待たずになくなったそうです。そして、家族は何人も増えていたのです。

 どうしたら良いでしょうね?」と仰ってた。「さあ!明日から徴兵制や!」と言ったら誰でも反対するよね。戦争への道は知らない間に、どうにもこうにもならなくなる状態を作ってしまわれるんです。今、失業率が高く、就業者は労働強化で余裕の無いほど忙しいでしょ?こう言う時って危ないんです。だから、少しでも声を出すことの出来る人は考えて声を出して欲しい。そして、今の子供たちに対して将来どう言う世の中を残すかの責任を感じて欲しいの。私達は、戦争経験者のお蔭で戦争の恐さを教えられ平和を作ってくれたお蔭で楽しく暮らせたと思うの。その平和を受け継いで子供たちに残していく義務を持たなきゃ行けないと思う。「一人が変わったって・・・」・・・尾団子はそうは思わないの。「一人一人が変われば世の中が変わる」と思っている。まだ、言論の自由が許されている間に、伝えていかなければならないと思ってる。

 世の中、見ていないようで、冷静な目で見ている若者をさて、どのようにひきつけていくのかが、課題だと思います。

 今の若者以前に、自分から変わらないと何を言っても説得力はないよね。お互いに、一緒に勉強をして行こ!

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間借り人 投稿者:葛餅 投稿日:11月14日(水)21時31分41秒

 すごい数の人たちが、家を焼かれたのですから、残った家に転がり込んで来る人が後を断ちません。「間借り」と言っても、お金を払って借りたわけではないと思います。そういえば、葛餅の家に間借りをしていた家族に、もと、宝塚の生徒がいましたよ。

 踊りの先生も間借り組み。この先生には、戦争中もずっと、家でお稽古をしてもらっていました。手回しの蓄音機でレコードをかけて。

 「間借り」と言っても、勿論契約書があるわけも無い。戦争の最中は、「助け合い精神」が出るようで、「家を焼かれたのならこの部屋をお使いなさい」、涙を流して「ありがとう」。こうして家に入った間借り人。

 戦後落ち着きを取り戻しても、「居住権」を盾に出て行ってくれない間借り人。間貸ししたほうは、ぼんぼん育ちのお人好し。随分問題を残したようです。(葛餅のところはそんな問題はそれほどなかったようです)。

 隣組と、言うのがありました。「回覧版でース」と、格子の玄関を開けて届けるのは葛餅の役目。「配給がありマース」、「何の配給?」「・・・エーと? ほら、冷たくて棒に刺さっているもの」。これ、間違いでした。キャンデーの配給。葛餅はキャンデーといえば、アイスキャンデーしか知らなかったんです。

 タバコの配給は、紙と刻みタバコ。くるくるっと撒いてちょっと舐めて。でも、父はタバコは吸わない。そんなときには「物物交換店」に行きます。これは面白い店。今で言えば、リサイクル店に近い。タバコはいいものに交換できます。

 父のお土産には、進駐軍のお弁当かな? クラッカーとか、えーと、何が入っていたんだろう?

 「いいものを食べに行こう」と、子煩悩な父が連れて行ってくれた鰻屋さん。残念ながら葛餅は、食べられませんでした。お芋のへたで育った子には鰻の油は無理だった。(今は、大好きです)。

 年が変わって、葛餅は戦後初めての国民学校1年生。入学して勇んで登校した学校には、校舎はありませんでした。瓦礫の山があるだけ。地下にあった「雨天体育館」をベニヤ板で仕切った教室でした。「危ないから行ってはいけません」と言われた爆撃を受けた石積みの校舎の跡は、探偵ごっこにはいい遊び場でした。

学 校の隣は靖国神社です。意味はよく分からなかったけど、お社の前を通るときには、必ずお辞儀をするように教えられました。

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徴兵制 投稿者:葛餅 投稿日:11月12日(月)22時00分32秒

 葛餅の父は、明治42年生まれ。いま、生きていてくれれば91歳かな? 葛餅の親族は、比較的自由な考えを持っていたとは思いますが、この時代の家庭は、「男子厨房に入るべからず」式の風習はありました。ところが、葛餅の父は、「ご飯も炊けるし、ボタン着けぐらい、裁縫だってできるよ」と、言うのが自慢でした。ピクニックに行ったりすると、張り切って薪を集めハンゴウでご飯を炊いてくれました。葛餅も「すごい!」と、尊敬してしまいました。

 「どうしてこんなことできるの?」

 「軍隊で教えてもらったからさ」

 父の話してくれる楽しかった、ちょっといたずらっぽい話の中には、学生時代のことと同じように、軍隊時代の話が出てきました。特に、新婚早々に入隊した父は、母が面会に来てくれるのが一番嬉しかったようです。みんなに冷やかされながら、得意で鼻をぴくぴくさせていた父が、目に浮かぶようです。

 つらかった話といえば、代々木の練兵場でのほふく前進。夜を徹して、重い銃を持って居眠りをしながら歩いた、進軍訓練。

 男ばかりの集団生活で、兵隊として役立つ、たくましい男性に鍛え上げる。尾団子さんの書き抜いている言葉は、こんな部分を指しているのでしょうね。

 「人間の条件」に出てくるような軍隊での上下関係。父の場合は大学を出ていたので、初めから幹部候補生として、少しは条件が良かったのかも知れませんが、それほどひどい下士官いじめの話も聞きませんでした。「ビンタ」が、教官の特技だった事ぐらいです。

 徴兵制の元では、質実剛健。今は偏差値とか知能指数かな?何かで、人間に優劣を付けたがるんですね。努力で何とか這い上がる道のある学力社会に比べて、徴兵制はいとも簡単に人間の優劣が決められます。箱詰めするミカンをS,M,L,LL等のふるいわけをするのと同じです。

 日本の徴兵制は、「20歳になった男子は、全て兵隊検査を受ける」ところから始まります。

 20歳の男性が集められ、裸にされ、体重、身長、体の機能、視力、聴力、虫歯、内臓疾患の有無。そして、口頭試問で、知的障碍の有無まで調べられます。最後には、ふんどしもはずして、梅毒検査と痔の検査。

 楽しい話を聞かせるのが好きだった父には、この検査の様子は、殆ど聞きませんでした。それだけでも、いかに屈辱的な行為を受けたかが分かります。

 結果は、甲、乙、丙、丁に分けられます。丁は「不合格」です。

 障碍を持つものは、当然「丁種不合格」。国民としてお国のために役に立たない者。非国民のレッテルが貼られます。

 「甲種合格」だと、お赤飯を炊いて祝ったような話も聞きますが、中には(いや、多分内心では多くの人)喜ばなかった人もいたようです。兵隊検査が近づくと、お醤油をがぶ飲みして内臓欠陥を誘発させた話などもあります。

 戦後、「健康優良児」の表彰がありましたが、これとは全く違うものだという事が分かります。

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徴兵制2 投稿者:葛餅 投稿日:11月12日(月)22時01分06秒

 「お国のために役に立つ強い人になりましょう」。例えば、中村哲さんが、「強い」意志を持って、アフガニスタンで働き、現地の人に「日本を忘れません」と感謝される。「日本のために強い意志で働く」。これとは違うんですよね。

 国が勢力を伸ばす、侵略戦争で、兵隊として働き、敵を一人でも多く殺し、軍隊の足手惑いにならない、強い体をつくる。自分の意志ではなく、天皇陛下のお考えのとおりに働く兵隊(ロボット)になる。

 これが、帝国日本の兵隊検査に受かった事で与えられる物です。

 日本中に「第・・・連隊」と、番号のついた兵舎がありました。兵隊試験に合格した者は、順番に(どういう順か?名簿からくじ引きのように決められたとか)「兵役」に呼び出されます。「徴集」です。そして、先に書いたような訓練と、期間を決めての兵隊としての役割をこなします。常に決められた人数の「正規軍」を確保しているわけです。

 父が、意外と遅くに徴集されているのは、大学に行っていたからだと思います。特別な猶予期間があったのかも知れません。訓練を受けた時期と、正規軍として勤めた時期が、離れていたのかつながっていたのかもわかりません。東京の住人であった父が、訓練を受けたのも、東京。予備軍だか正規軍だか分かりませんが、近衛連隊で、皇居を守っていた事だけは聞いています。

 父が入隊していたのが、昭和10~11年ごろ。長女が生まれたときに、父が家にいなかったことでも分かります。そして、その間に「2・26事件」が起っています。

 「徴集を受けたら、拒否すればいい」。

 今の若者でなくても、意志のある人は考えます。すぐに憲兵が飛んで来て、連行されてしまいます。「人間を何だと思っている?こんな制度はおかしいよ」。こんな話をしただけで、壁に耳有り。憲兵に引っ張られます。

 右翼がアルバイトを募集すると、たくさんの若者が集まり、同じ衣服を着て、統率される事を喜ぶそうです。でも、自分で選んで参加するのと、ファシズムのもと、個人を認められず自由を完全に封じられた状態の違いは、全く知らずにいる。もてあました体力のはけ口なんかと訳が違う事を、早く伝えてあげないと、えらい事になる。自由の中に生まれてきた若者が、「自由が無い」とはどういうことなのか。殆ど想像はついていないと思います。

 兵隊は人間ではない。死んでも、紙切れ一枚で「死にましたよ」と、家族に知らされるだけ。「過労死だ!損害賠償!国で保証しろ」。人間じゃないんだから、そんなのない。

 余談ですが、この間、たまたま保険やさんと話をしました。「戦争は保険の対象にはならない。テロは対象になる」そうです。

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徴兵制3 投稿者:葛餅 投稿日:11月13日(火)00時28分50秒

 兵役を終えると、家に帰って平常の生活に戻ります。拘束期限が切れて、自由な市民になった?違います。帝国が存続する間、ずっと軍人です。いつでも、「招集令状」1枚で、招集に応じる義務を課せられています。家での生活の間も「在郷軍人」です。父は、日中戦争の始まる前に、家に帰っています。日中戦争が始まり、4年後には真珠湾攻撃に突入する。その、不穏な時期に、両親は子供を一人増やします。お国のために、兵隊として役立つのは男の子。でも、生まれたのは女の子。次女です。「何だ、また女の子か」と言いながら、お国に持っていかれないで済むことにほっとした両親。これ、葛餅です。

 2年後に太平洋戦争に突入。徴兵制に話を戻すと、父は既に退役していたわけですが、出征兵士をどんどん送り出し始めた頃に兵隊検査を終えて、徴集を受けた年代(大正生まれ)は、訓練が終われば国外配属も増えてきます。

 叔父たちは現役のまま、満州や千島に配属になっています。戦争が激しさを加え、現役軍人だけでは足りなくなると、在郷軍人に呼び出しがかかります。

 「招集令状」1枚で、訓練を終えている「甲種合格」の人から、招集です。会社の転勤命令とは違い、この令状を受け取れば、次の日には軍隊に駆けつけなければなりません。代々木や冨士の裾野での訓練ではなく、即、出征です。甲種も乙種も丙種も、歩ければ皆引っ張り出されます。現役軍人の2倍3倍の退役軍人が、召集されてたようです。20代30代の男性は根こそぎ招集しても足りなくなった時、取った策は、兵隊検査の年齢引き下げ。二十歳だったものが、19歳18歳になり、ついには17歳まで引き下げて、戦場に送り出しました。母の末の弟は、大学に入ったばかり。「学徒出陣」と言われる形で、ゼロ戦の基地に特攻隊として配属。軍隊訓練もなく、とにかくオモチャのような飛行機を飛ばす練習。

 終戦の日、葛餅は縁故疎開(言葉が難しい?)で、信州の山奥の村にいました。「終戦」とか「敗戦」とかいうことは分かりませんでしたが、この、若い叔父が突然私たちの疎開先に軍服のまま現れたのを覚えています。「東京には帰らない。ここで百姓になる。よっこ(葛餅)もここにいろ」。こう話されて、小さい葛餅は真剣に考えたことを覚えています。「だって、家に帰りたいもの・・・」。

 後で知ったことですが、叔父は明日にでもポン骨飛行機で飛び立ち、敵艦めがけて体当たりを、待っていた、極度の緊張の中での敗戦に、まだ、10代の心に、深い傷を負って帰ったのでしょう。その後も、この叔父からは、何も戦争の話を聞いた事がありません。

 それに引き換え、少し上の叔父2人(父の弟と母の弟)は、面白おかしく話してくれます。

 千島にいた叔父は、いよいよ決戦の前に、休暇が出て、2,3日帰ってきました。決戦を控えて、密かに家族との別れに帰ったのでしょう。そして、15日には部隊に帰らなければなりません。帰る船の中で敗戦。そのままシベリアに抑留です。満州にいた叔父も、同じくシベリア抑留。この、2人の叔父は、偶然にも抑留先で出会っています。2人とも、栄養失調で人相が変り、分からなかったといいます。2人は、捕虜収容所で出会っていることを、家族や親戚に知らせたい。でも、手紙は全部検閲されます。そこで、2人は苦肉の策を使います。父の弟の手紙に、なぜか、母の弟の家のことが書かれ、母の弟からは、留守中に生まれた父の弟の子供の名前まで書いてあります。そういえば、軍隊の自由束縛の中には、手紙や慰問袋の中身の検閲もありました。こんなことを当たり前にしていたのが軍隊です。

 2人の叔父が次々に帰ってきたときは、葛餅は小学生。大船駅のホームで、軍服姿の人が大勢降り立った復員列車を迎えました。汚い兵隊服にリュックをしょった復員兵に混じって、荷物も持たず、背広にベレー帽の人が一人。これが叔父でした。「軍服で帰るのはいやだから」と、自分で背広と帽子を作って、それを着て帰ってきたんです。器用な叔父ですが、仕立て屋ではありません。抑留中に作ったマージャンパイも入った荷物は、ちゃっかり貨物で家に送っていました。 この、おしゃれな叔父が、真っ赤なオープンカーで、ドライブに連れて行ってくれたのは、わずか5年後。戦後の日本の変わり身の早さに、いまさらながら驚きます。

 まるで、戦争のことは忘れたように振舞ってはいましたが、戦争の話を口にしない叔父や、面白おかしい話しか聞かせない叔父たちの中に、「二度と戦争をしてはいけない」と、いう言葉は、根を張っていたと思います。



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