ねこの目グループの戦争体験 2

戦争体験2001年12月〜

自らの戦争体験だけでなく、聞き伝えの話なども編集しております

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戦争体験 大阪府堺市 OYさん(2002年2月記)

物心ついてからの心に残る戦争体験をかんたんに取りあげてみることにする。

1931年に柳条湖事件が起こり、満州事変がはじまった。私は小学校に入った年で、満州国の建国を祝って、だと思うが、男の子に黄色の(上衣と黒のズボン)中国風の服を着せ、女の子にはえんじ色のワンピースを着せて、夫々に五色旗と日の丸の小旗を持たせ踊らされた記憶がある。満州国が作られたことで、日本の国は大変な活気を持った。新聞紙上で見たのか、写真を見たからか、それとも後になってみた写真の記憶によるものか、私の脳裏にあざやかに昭和天皇と溥儀が並んで馬車に乗って宮城前を走っている姿が焼き付いている。

もう誰も言わなくなったがそのころ肉弾三銃士の事件があった。三人の勇敢な日本兵が、爆弾を抱えて敵の鉄条網を爆破したということであるが、身を屠して道を開くとは、今ではとうてい考えられない。アラーの神に身を捧げたアタのようだ。私たちは三銃士をたたえる歌をよく唄った。今も半分位は覚えている。

小学校の講堂に「世々その美」という字の額が上がっていて、犬養さんの字だとの説明を受けていたが、ひょっとしたら斎藤実の字かもしれない。この犬養さんが暗殺された。

その頃、共産党の検挙が度々あって、新聞の中でその記事を見ながら「一網打尽とはどういうこと」と養父に聞いたことがあった。子供心に何か異常な事態だと思ったことは確かだ。昭和11年(1936年)に二・二・六事件が起こった。

太田の田舎の家では、毎年陸軍の軍事演習が近所であって、兵隊さんが泊った。子供は兵隊さんが好きで鉄砲に触らせてもらったり、話し相手になってもらってよろこんだものだ。その中の伍長さんが手紙の中で二・二・六事件のことを書いてくれた。東京では大変なことが起きましたと。

序々に戦争へと導かれて行ったようだったが、物心ついて以来、どっぷりとそのような空気に漬かりきっていた私たちには、何を批判する力もなかったのが正直なところであった。

身近の人で召集された人がなかったので、別れの哀しさ、戦士の酷さを味わっていない。只、英霊を迎える儀式には毎々立ち合った。

学校では教育勅語の暗記や、歴代天皇の名前を覚えたりした。尤も私どもを中心に3、4年間の中学や女学校の入学試験が皇国史観の日本歴史一本になった故、歴代天皇の名前を覚えるという必要があった。後になってこれを覚えたことはいろいろの役に立った。子供のときには何でも覚えておいた方がよいもんだと今になってよく思う。子供の頭は柔軟だからいくらでも憶えられる。

昭和十三年日本は中国に攻め入り、日支事変がはじまった。小学校六年の年で、これ以前かこの頃までの記憶の要約になる。

中国の都市が次々と日本の軍隊に攻め落とされ、我々は日の丸の小旗を振って陥落を祝った。裏面で何があったかは知る由もなかった。

昭和十六年、太平洋戦争に突入した。平出大佐の「大本営発表・・・」という上ずった声が、今も鮮明に耳に残っている。「本八未明、大日本帝国は・・・」と言う言葉に、軍人の家庭に育った高木の父は、泣かんばかりに喜んで「やっぱり、日本の軍隊は強い、よくやった」といった。

あの興奮は、九・十一後のアメリカで、ブッシュ氏の「戦かおう、テロに対して」の声に団結した人々の姿と重なる。

日支事変の最中(日中戦争のことをそう呼んでいた)私たちはよく、慰問文を書き、慰問袋を戦地に送った。文章を書くことは好きだったので、沢山の慰問文を書き、沢山の返事を貰った。まだ存命だった太田の母が一番に読んで、この人は育ちのよさそうな人やね、などと言った。

出征兵士が身に着ければ守られると言われた千人針がクラスにまわって来て、女生徒全員が白い手拭の形のさらしに赤い糸で一針ずつたまを作った。

絵画や映画も戦時色に染められ、戦争を称賛するもの一色になって行った。

女学校では、英語が教科から外された。尤もその頃は学校で畠作りや軍事教練を始終していた。

紀元二千六百年の式典があったのは、たしか昭和十六年ではなかっただろうか?

みいつ輝く日本の、はえある光身に受けて、今こそ祝えこの朝(あした)、紀元は二千六百年、ああ一億の血は踊る、と歌った。

いろいろの物が切符でないと買えなくなって、布や糸を買うことも自由ではなくなった。お嫁に行く娘さんを持っている家では、人の切符までゆずり受けて着る物を買っていた。

女子挺身隊が出来て、何人かの友達が工場や師団司令部で働いていたのは終戦に近いころだったろうか?

その頃、私たちのいた学校が聯隊区司令部になって、大勢の軍人が事務をとっていた。私たちもそこでいろいろの事務を手伝った。或る日、極秘という印を押された大きな帳面を渡され、チェックする仕事を命ぜられた。本土のすぐそばの沖合いで、いくつもの輸送船が沈没し、大勢の人が死んでいることにびっくりした。ノートには死亡者の情報が克明にしるされていた。

聯隊区司令部にいた人は、でも戦地には行かなくてよい、特別の人たちだったようだ。

日本はもう負けるんだと言い切っている人もいた。終戦と同時に軍のものとおぼしき物資をトラックに積んで知人に預け、ずっと後になって、それを売りさばいて生きた人もいた。

終戦の日の年越し(節分)の三月十日の陸軍記念日には大阪でも雪が降った。殊に陸軍記念日の際、旧校庭で聯隊司令部にいた軍人たちの点呼が、きらめく雪の中で行われていた景色が忘れられない。軍服姿をととのえた将校が、サーベルをがちゃつかせながら雪の校庭に出て行ったあの姿も・・・。

前線に行かないでよい軍人たちのことを私はいまだによく知らないでいる。何等かの理由があったに違いない。

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満州引き揚げ「玉吉おじさんの話」を読んで・・・(2008年1月記)

昭和21年9月のある夕暮れ、私たちは小さな漁船に乗り込もうとしていた。日本へ引き揚げようというのだ。私たちの住んでいた旧満州国安東市は当時八露軍(中国共産党軍)の占領下にあったため、正規の引き揚げルートではない。皆でお金を出し合い船をチャーターした。いわゆる闇船でのボートピープルだった。

その船に乗ることを母はかなりためらったようだ。安東市長だった父がその一月ほど前、戦犯容疑とやらで中共軍に連行され所在不明だったからだ。しかし便のあるときにと父の友人たちに強く説得され決心した。といっても、無事に帰れるという保障もない。帰る先の日本の状態がどうなのかもまったくわからない。11歳の私を先頭に8歳、4歳、2歳の4人の子連れでどうなることかと、不安でいっぱいだったのであろう。その母の気持ちを実感できたのは、私も自分の子供を持ってからだった。

それまでに築いた全てを捨てて、ただ持てるだけの荷物を抱えた人々を一杯に詰め込んで、船はポンポンと蒸気の音を響かせ、朝鮮との国境となる鴨緑江をゆるゆると下っていった。ソ連の監視艇に停船を命じられ肝を冷やしたり、風を避け入り江に入って荒れすさぶ風雨の音を聞きながら眠れぬ夜を過ごしたり、一週間ほどかけて南朝鮮仁川の近くに着いた。その間の食事はどうしていたのか、海水で炊いたご飯がしょっぱかったことしか覚えていない。持ち帰ったお鍋ややかんがあった。多分お米も持っていってそれぞれの家族で調達したのだろう。お手洗いは船縁に張り出した木枠の中、波が荒いと海に落ちそうで怖かった。

上陸して汽車に乗れるところまで歩く。末っ子を背負い風呂敷包みを抱えた母、それぞれにリュックをかついだ3人の子、我が一家はどうしても皆より遅れがち、早く早くと急き立てられべそをかきながらの行軍だった。石炭用の無蓋車に乗せられ折からの雨に濡れそぼちながらソウル郊外の収容所へ。テント村だ。テントの中はアンペラを敷いただけ、精製していない大麦のご飯はお腹はくちくなるものの消化もせず通過していった。

2週間ほどたち乗船の順が回ってきて、馬用の車両で釜山へ。引き揚げ船のマストにはためく日の丸を見てやっと日本へ帰れると思った。乗船した翌日佐世保に着く。しかし検疫に引っかかり1週間の足止め。予定外のこととて食料不足、朝晩お椀に軽く1杯のこうりゃんのおじや。盛りが多いの少ないのと浅ましい争いが繰り返され、ただただお腹がすいて動く気力もなかった。

やっと上陸許可が出て頭から真っ白にDDTを振りかけられ、お芋の弁当をもらって父の郷里へ向かう列車に乗った。伯母一家によう帰ったと迎えてもらったのは出発してから1ヶ月余り後であった。惨めな旅だった。その間まともに人間扱いされることはほとんどなかったような気がする。戦争は人間を無視する。戦後ですら敗者は人間とはみなされないのだろう。人間が人間として一人一人の尊厳が認められるためには平和でなければならないのだ。父はとうとう戻らなかった。風の便りに人民裁判に掛けられ処刑されたと聞いた。遺骨も遺品もない。

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