WEBMASTER 今週の述懐 . . . . .

 

「市民」 という言葉は 本来 左翼的でも右翼的でもありません。

今日この言葉には、イコールパートナーとして、

自分たちの問題について皆が責任を共有する、

自律的な個の 相互連帯

イメージされていると 私は 思います。

 

まちづくり ないしは 都市環境・住環境に引き寄せて考えれば、

戦後53年かけて作り上げた このカオスの責任を

為政者も 生活者も 建築家も プランナーも コンサルも

不動産業者も 住宅産業も ジャーナリズムも 建築教育も、

皆が引き受け、改善の道を考え、修正するべきを実行する、

その主体を表現する言葉だと考えたいのです。

 

歌舞伎の黒子を例に挙げて

日本人には見えているものも(カオス)見ないで済む意識構造がある、

あるいは トリミングの文化だ(借景の伝統)、

日本人は美に敏感で 醜に鈍感だ、

何事も水に流す「非構築的な」民族性だ、

などと

自嘲してみても始まりません。

 

散らかった部屋の中で

誰かが片づけてくれるだろう、自分は面倒くさい、時間がない . . .

. . . ではなくて、

部屋の共有者が 対等な個として 片づける算段を取り決める、

それが市民性の最小モデル と 思われます。

 

さて、

キャサリン・フィンドレーという 英国から来た建築家が

自由曲線のみで構成された住宅などを日本で実現させています。

私が その周囲からの都市景観上の突出を指して

「あなたのデザインはイギリスでは許可されるのか」問うたところ、

"No way ! (とんでもない)"

平然と言われました。

 

来週はこの小さな例に示される事の意味を

もう少し考えてみたいと思います。

 

 

ではまた。 (^_^) 安達

続き

 

98/02/01